―― 『』 ――


GREEN EYE
                ―― 魔眼 ――


「とは言うたモノの……」
 ライザは目の前で抜刀の構えをいまだ解放しない剣士を見た。いや、あるいは侍、とでも言うのだろうか。動けないのにもちゃんとした理由がある。銃の乱射は先程全て受け止められている。それに加え、あの動きの読みにくい鋭い斬撃。戦いはつい先程始まったばかりなのに、まさに打つ手なしの状態である。
 こちら側にも切り札があると言えばあるのだが、何しろ発動までに時間がかかる。充填に五分はかかるだろう切り札。相手がただの素人なら良いが、相当な技能を持つ侍となれば、充填している間に頭から真っ二つでお陀仏だ。
「ま、そんな甘い事も言うてられんか」
「殺ス」
 ライザがまだ戦術を組み立てる思考を完全に振り払えていない状態にありながら、バッカスはそんな事はおかまいなしと言うように突進してきた。そのスピードに目を見張らせつつも、そのスピードに辛うじて追いついていく反射神経で、回転拳銃を握り締めた右腕を振り上げる。
「アホみたいなスピードやな……!」
 六発の轟音はバッカスに命中する事無く、森の茂みに飛び込んだ。
 ――全部避けられたか!
 気付いた時には黒衣の神父の真横に出現する殺意だけの鬼、バッカス。ライザは左手に握っていた短銃を右脇下から覗かせた。
 ――どう足掻いてもスピードでは叶わへん。
 実感しながらも短銃を乱射するライザ。相変わらず刀で銃弾は弾かれている。それを確認したライザは七発発撃ち終える前に、リボルバーのシリンダーから空薬莢を抜いた。軽く地面を蹴って後退、芝生を転がりながら瞬く間に六発の銃弾をシリンダーに吹き込んだ。
「まだまだやぁっ!」
 再接近を試みるバッカスに向けて立て続けに三発。それで縮まった距離を稼ぐには十分だった。後の三発は撃たずに更に後退する。すぐさま追いかけるように地面を蹴るバッカス。勿論、後退しながらも短銃のマガジンは再装填済みだ。走るライザ、追うバッカス。しばらく、どの方向に進んでいるのかすら分からないが、神父は走る。振り向くと案の定、自分を殺そうとする殺意だけの鬼が追いかけていた。
「そやそや、ええ感じやで」
 右腕を肩越しに振り上げる。旧式回転拳銃と殺意の鬼との視線が一致した。すかさず鞘を眼前に振り上げ、放たれた銃弾を受け止めるバッカス。しかし尚もそのスピードは落ちることは無い。先程の一瞬、殺意以外の感情。恐怖という感情がバッカスに表れていたようだ。スピードは落ちずとも、微妙な表情の変化を捉えることはライザにでも出来た。
 だが、それもほんの一瞬だけの事。すぐさま凄まじい殺気を取り戻したバッカスは、立ち止まって振り向いているライザに向かって飛び掛った。鞘は捨て、刀を大きく振りかぶる。
 そしてその時既に、先程走っていた間に充填していた"魔眼"が発動しかけていた。
「ウオオオ!」
「ショータイムや」
 ライザの緑の瞳孔が大きく開かれた。その視線に見つめられたバッカスは思わず刀を振り下ろさず、ライザの目の前で着地し、すぐさまバックステップで後退した。不敵な笑みを浮かべるライザ。緑の瞳孔は機械的な音を刻みながら動いている。
「野生本能っちゅー奴か? あのまま突っ込んでたら、死んどったで」
 けらけら笑いながら再びバッカスを見つめるライザ。
「どや、も一回」
「う……ウウ、オオオオ!!」
 バッカスは再び突進してきた。だが今度は殺意だけではない。その表情にはいくらかの恐怖も含まれている。
「おうおう、来い来い。女王蜂に刺されてまわんようにな。そう」
 どこからとも無く銃声が轟く。バッカスは右太ももに妙な違和感を覚える。違和感? 否、痛みだ。
「こんな感じにや」
 銃で撃ちぬかれたと理解した時には激痛を伴う吐き気。この殺人鬼と化した男、攻撃能力は高いらしいが、どうやら防御能力はてんで駄目らしい。
 ライザに向かって振り下ろそうとされていた刀は、力なく地面に転がった。ふらふらとしながらも、何とか踏ん張っているバッカス。その顔には恐怖と困惑が入り混じっていた。どこから撃たれた? あの男は腕を振り上げるどころか指一本動かさなかった。ならば、どうやって足を撃ちぬいたと言うのだ。
「ウ……オオオオオオオオ!」
 猛々しい咆哮をあげて再び、今度は素手で牙を剥くバッカス。だが、その進攻も左足を撃たれて一瞬にして幕を閉じた。脚部に力が入らない。だらしなく足を折ると、バッカスはその場に平伏した。またもや目の前の神父は身動き一つとっていない。
 ライザは哀れみを帯びた瞳で平伏す鬼を見下ろすと、首を振った。
「人間じゃ、ないねんな。ホンマにかわいそうなこっちゃ」
「ウ、ウウ……」
「何歳かも分からん。まだ十代、二十代やったら色々やれてたのになあ」
 だが、ライザは言葉とは裏腹に、無慈悲に銃爪を引き絞った。その無慈悲な拳銃から放たれた無慈悲な銃弾はバッカスの左腕を肩から吹き飛ばす。先程とは違い、ライザの表情には何の感情の色も見受けられなかった。
 だが、深層では先程のバッカスより酷く冷め切った殺意を燃え上がらせていた。よろめく殺意の鬼を眺め、呟く。
「ヒト殺して、亡者なんぞになりおって、そんな事が許されるとでも思うてるんか。亡者には死を、アーメン」
 次の標的は左腕。轟音と共に地面にのた打ち回るバッカス。三発撃ち終えてライザはようやく指を止めた。
「……」
 リボルバーの代わりに短銃を振り上げるが、撃たない。何を考えているのだろうか、その慈悲の無い漆黒の瞳は殺意の鬼を見下ろしていた。止めを刺せとトリガーにかかっている指に命じる。だが、指はその命令を拒否している。金髪の少年神父の顔が脳裏を過ぎった。
 ――殺しては駄目なのか?
「ワイも、とんだ甘ちゃんになってもたな」
 リボルバーと短銃を腰に収め、ライザは身をひるがえして恐らく元来た道を戻り始めた。バッカスはしばしの間、唖然としていたがすぐに殺意を思い出す。その視界に飛び込んできたのは先程落とした刀。今、背を向けたあの男は完全に無防備状態。これなら、殺れる。
「オオオオオ!」
 雄叫びと共に滑るようにして地面を走り、落ちていた刀を拾い上げ、ライザの背後に迫る。刀を振り上げ、自分が奴の身体を真っ二つにするところを想像する。それだけで気分がいい。人を殺すとは何と楽しい事か。このような楽しみを与えてくれた悪魔達に感謝せねば。これからも自分はヒトを殺し続ける。そう、楽しみの為に。バッカスは殺意と血にまみれた刀を振り下ろした――が、想像は実現には至らなかった。
 自分の背中から撃ち込まれた十二発の銃弾は確かに全弾、心臓を通り抜け、胸を突き破って行った。破裂した動力部。最早バッカスが動く事は無い。声を出す事も無く呆気なく草の上に倒れると、芋虫のように這い蹲る指先が震えた。だが、数秒もしないうちにぴたりとその指が止まったかと思うと、それ以上、殺人鬼が動く事は無かった。緑色の瞳は絶命した殺意の鬼を哀れみの色で見つめた。徐々にその緑は元の漆黒へと戻っていく。
「お前みたいなヤツに、俺の目が見切れるわけがないやろ」
 胸の前で十字をきると、漆黒の神父は再び森の中を歩き始めた。


  ◇

「ど、どこに消えたんだろ?」
「さ、さあ?」
 ルーベンスとリプレスは顔を見合わせた。敵、"操り師"の姿が突如として消えうせたのだ。逃げた? いや有り得ない。はっきりと肌にぴりぴりと刺激を与えるぐらいの殺気が存在している。問題はその殺気、存在感が全方位から放たれていると言う事だ。ルーベンスは参っていた。これでは殺気で相手の居場所を探る事が出来ない。
 補給はマルクトで済ませてきたものの、コンテナはこの広大な森のどこかに落とすし、残弾数はマガジン四個だけ。今、銃身に装填されているのを合わせると十分かもしれないが、念には念をだ。
 たかが相手が一人と言えど、悪魔に魂を売った連中の強さは、今まで相手にしてきた屍どもの比ではない。
「マリアは大丈夫?」
 ルーベンスはリプレスに尋ねた。リプレスの膝の上で眠っているマリア。
彼女はどうやら操演術と言う妖術を施されていたらしい。触れて術をかけるのが一番なのだが、どうやら中距離から何かを用いて術を施したようだ。その証拠に居場所を見破られ、集中力が途切れただけでマリアの操演が解けた。そもそも操演とは、心に暗示をかけ、深い催眠状態より相手を操る高等の妖術。術を使う者が卓越した腕前なら、意思をもたぬ岩でも操れると聞いた事がある。
 もし、この操演がマリアに触れられて行使されていたのなら、マリアは今もなお操られている事だろう。そう考えるとぞっとするが、今は別段、起きる様子も無く少女はただ眠っている。
 ――ミディアンズを使うか? いや、シルバーウルフでも十分に――
『十分に……何です?』
 ルーベンスは脳を直接揺さぶられるような感覚に襲われた。マインドテレパス、脳に直接話し掛ける超能力の一種である。
「成程ねぇ、僕の心もお見通しってワケか」
「その通り。久々ですねぇ、神父ルーベンス」
 今度は嫌味に満ちた男の声が聞こえた。茂みの奥からはやたらと背の高い男が出てきた。輪郭も細く、丸眼鏡にひきつったような笑顔。髪は蒼く、ボサボサだ。どこからどう見ても典型的な学士だと分かる。そして、そんな男が一人、教会の神父に居た覚えがルーベンスにはあった。
「ディーズ、ディーズ・フォーガスだね」
「よく覚えていたものだ。私のような影の存在を」
 本当に嫌味っぽく言う。しかし別にルーベンスは腹を立てるわけでもなかった。
 ただ――彼が昔よりもとてもちっぽけに見えるのは気のせいだろうか。
 学士と言う立場、普段から活躍せず暗い部屋の中での研究の日々。彼がどれだけ光を浴びたかったか、ルーベンスには何となく分かる。悪魔に魂を売ってしまった理由も、恐らくそれだ。ただ、皆の視線を浴びたかった。ただ、活躍したかったのだ。馬鹿々々しく思えるかもしれない。だが彼にとっては重要な事だ。彼を馬鹿にする事は何人たりとも許しはしない。だが、マリエルを殺してしまったからには、処分しなければならないのも事実だ。ルーベンスは銀狼を構えて、鋭い視線でディーズを睨む。
「特務機関『セラフィム』の命令より、君を処分する」
「処分……か、笑わせてくれます。以前のひ弱な私だとでもお思いか? タナトス様は実に素晴らしい力を私に与えてくれた。フフ、今はあなたに負ける気がしません」
「タナトス……まさかアイツまで出てきてるなんてね」
 ルーベンスはディーズの事より、彼が口にした名前を気にした。
 ――タナトス。アスラフェルの兄であり、亡者の世界での上級貴族。
 そして、ルーベンスの兄でもある悪魔だ。
 気付かないうちにルーベンスの拳に力が込められる。奴もまた、マリエルを殺した内の一人。
「おやおや、何を別の事を考えているのです。貴方の相手は……」
「……!」
「この私ですよ!」
 ――風? いや、ケロベロスに似た斬撃だ。
 地を這う鋭い衝撃は一直線にルーベンスを狙った。まさか魔獣召喚術――否、二重の意味で有り得ない。まず、あの召喚術はルーベンス自らが師匠から受け継いだ力。術を使えるのはルーベンスとアスラフェルしかいない。それに召喚する際、大量の霊力を消費する術であるため、元々霊力を持たない人間にはまず使用することすら出来ないはずだ。
 しかし、念には念を。銃を振り上げたルーベンス。地を這いながら素早く近付いてくる三本の衝撃を正確にポイントする。衝撃に衝撃を伝えてやれば相殺するはずだ。立て続けに三発、シルバーウルフは三筋の衝撃波を各個撃破しようと牙を剥く。
「笑止」
「え……?」
 確かに大地を走る衝撃を撃ち抜いたつもりだったのだが、何と衝撃自体が大きく散開し、前方三方向から一気に攻めてきた。流石に反応する事もままならない。ルーベンスは、三つの斬撃とすれ違い様に深々と斬りつけられた。
「っ!」
「どうです? 痛いでしょう」
「いったいなぁもう!」
 当然の感想である。いや、異常だ。右肩は裂け、左腕は肘から先が吹っ飛んでいる。鉢巻も斬られて額からは血が噴出していた。常人から見ればかなりの異常だ。生きているのが不思議なくらいの重傷である。
「やはり不思議な方ですね。タナトス様同様だ」
「この体質の事?」
「あ、あの傷で……」
 リプレスはルーベンスの体を見て唖然とする。悲しそう瞳でルーベンスは落ちていた左腕を、激痛の走る右手で拾い上げた。そして無造作に左肘に、左腕の接合部分を押し付けた。白い煙が音を立てて立ち昇りながら、みるみるうちに付け根は修復されていき、見事に元の状態へとくっ付いてしまった。額の血もとまり、傷もふさがれている。右肩もまた同様だ。残ったのは、惨たらしい血の後だけである。
「大丈夫、ですか?」
「うん。ヒトじゃないからね」
 いまだ悲しそうな瞳でルーベンスは左腕が動くかを確認する。指に感覚はある。そして激痛がひいていくのと共に、ルーベンスの深き海の蒼をした瞳が、鮮やかな赤に染まる。
[ミディアンズ二十パーセント活性化開始、戦闘モードにて起動――]
 閃光の後、ルーベンスは見違える程の姿へと変貌する。身長は伸び、顔も大人び、何より背中から出現した漆黒の翼が印象的だ。リプレスは初めて見るその堂々とともとれる姿に、しばし惚けていた。
「あの女に封じられた力とやらですか! 本性を現したな!」
 ディーズに罵られながらも、ルーベンスの表情は悲しげなものから全く変化を見せない。ただ、その真紅の瞳は真っ直ぐにディーズを射抜いていた。
「俺はタナトスやアスラフェルのように人殺しの為には使わない。俺はヒューマンを守る為にこの力を使う」
「くだらないですよ! 全くもってくだらない!」
「ルーベンス・バロールが召喚する」
 ルーベンスは右手を振り上げ、掌を開いた。
 ――魔獣"ケロベロス"は爆光を放ちながら契約を承認し、異世界の門をくぐって招かれた。
「ケロベロス」
「喰らいなさい! 刹那の斬撃を!」
 ディーズもまた両腕をめい一杯広げた。すると数十本と言う斬撃が風をも切り裂く勢いで迫ってくる。一方、ルーベンスの掌で戦意を十分に引き出された地獄の番犬は暴れたくてしょうがないらしい。斬撃が迫る。ルーベンスはその衝撃を十分にひきつけて一気に右腕を振り回した。掌から解放された番犬は主の掌の動きに合わせて、負けじと鋭い斬撃を発動させる。ルーベンスの動きが止まった時には、ディーズの放った衝撃はケロベロスの爪により、全て断ち切られていた。
「馬鹿なっ!」
「ワイヤーブレイド。成程、妙に切れ味のある武器だとは思っていたが」
 ――ワイヤーブレイド。
 極細のワイヤーにこれまた極細の鋼鉄の刃をまとわせた、まさに神業の一品である。裏のルートで取引される事が多いのだが、なにぶん、使いにくさの面から買い手がおらず、最早この世には存在しないものとされていた。何しろ糸がどう動くかなどを読んで使わなければ、自分が切り刻まれてしまう恐れすらあるからだ。その反面、相当な使い手が使えば有力な武器となる。しかし、その神業ともいえる一品も、地獄の番犬の前では赤子同然だったようだが。
 ディーズは必殺の一撃が破られ、目の前の悪魔を前に後ろずさった。その顔は既に恐怖に歪んでいる。
「く、来るな!」
「亡者になったお前達を許す訳にはいかない」
 ルーベンスは腕を振り上げ、再びケロベロスを召喚しようとする。しかし、決着をつけようとした悪魔の前に、リプレスがディーズを庇うように両手を広げ立ちふさがった。
「リプレス?」
「だ、駄目です。殺しちゃ駄目ですよ」
 少女の体はガタガタと震えている。絶対的な力を示したルーベンスが恐ろしいのだろうか? 背後に存在している化け物に打ち勝てる力を持つ目の前の化け物が怖いのだろうか? ルーベンスはケロベロスを掌に召喚したままリプレスを見ていた。
「どいてくれ。俺は任務を果たさなくちゃならない」
「任務って……そんなに大事ですか! ヒトの命を簡単に奪っちゃう任務でも!」
「それは……
 ルーベンスは押し黙った。確かに今は亡者と言えど、元は人間だ。自分はこの少女に言った。自分は人間を守ると。自分の行動は確かに矛盾している。それでもルーベンスは腕を下ろすことが出来なかった。後ろの男は、愛していた女性を殺したのだ。
 リプレスはルーベンスが腕を下ろさないのを睨みつけたまま、ぼろぼろと涙を流しながら、半ば叫び声になりながら訴える。
「私は目の前でヒトが死ぬなんて見たくない! 綺麗事かもしれない……でも見たくないんです! 守れるものは守りたいんです!」
 悪魔、ルーベンスはここまで言われて腕を振り下ろす事など到底出来なかった。彼にも彼女の言っている言葉の意味が痛いほど分かるからだ。静かに地獄の番犬を異世界へ返還させると、静かに腕をおろした。
「分かった。殺さないでおこう」
「あ、ありがとうございます!」
 ルーベンスの瞳の色が赤から海の蒼へと戻る。ソレと同時に身体も縮んでいった。
「ディーズ、君は彼女に助けられたんだよ。その命、大事にしてよね」
 ルーベンスは身をひるがえしながら微笑んだ。ディーズはただ呆気にとられていた。
 自分はまだ生きている。彼らは仕切りなおすチャンスをくれたのだろうか?
 しかし、頭に直接話し掛けてくる何者かの声が、その思考すら掻き消す、暗く重い響きを放ちながら囁いてきた。
裏切るのか、ディーズ。キサマに力を与えてやった恩を忘れたか
『そ、そのような事は!』
ならば歌姫を確保しろ。そうすればキサマを許してやろう
『御意!』
 ディーズの狂ったような叫びにルーベンスが気付いた時には遅かった。リプレスは既に彼の腕の中。咄嗟に少年神父はシルバーウルフを振り上げる。
 ――やはり仕留めておくべきだったか。
 ルーベンスは後悔の念に襲われながらも、操り士を睨みつけて、静かに言い放つ。
「動くな。動けば殺す」
「はぁ、はぁ……こいつをタナトス様に……! 邪魔はさせん!」
 ディーズがじりじりと後退する。リプレスは必死に抵抗を試みるが、亡者の腕力に勝つことは出来なかった。
 ――どこを撃っても一撃では倒せない。どうする……
 心の中で呟くルーベンス。銀の銃口はディーズのどこを撃とうかと悩んでいるように小刻みに動いている。茂みの中へと入ってしまう。このままでは逃げられる。
 一撃で倒せなくても行動さえ止めてしまえば良い。ルーベンスは銃口を下げた。
「足だ!」
「これで、これで私は認めてもらえるぞ! 私は、私はっ!」
 ――轟音。否、爆音。
 ディーズが下半身の感覚を失った時には、既に情けなく草の上に平伏していた。歩けない? なぜ?
 その答えは自分自身が、感覚のない下半身へと視線を移した時に出ていた。
「あ、足が……足がぁぁぁぁ!」
 自分の足、むしろ下半身全体が何らかの攻撃によって吹き飛んでいる。まるで地雷でも踏んでしまったかのようだった。そして、加害者が森の茂みから暗く冷たい声を放ちながら出現する。
「目標補足。殲滅戦を開始する」
 白い僧衣。黒の短髪に、まるでヒトとしての感情を全て忘れたかのような感情の光の灯らぬ深茶の瞳。現れたのは特務機関『セラフィム』派遣員"カノン・オペレイクス"だった。銃を掲げる少年神父を一瞥し、的確に、だがおよそ抑揚の無い声で仲間の安全を確認した。
「神父ルーベンス。怪我は無いか」
「カノン! 君が何故こんな所に!」
「エリス・エドワードからのオーダーだ。お前達を援護しろとな」
 ずるずると草の上を芋虫のようにはうディーズ。カノンは無慈悲にその獲物を見下ろすと、大口径の二挺拳銃を構えた。
「動くな」
「ひっ……!」
「カノン!」
「神父ルーベンス。お前は今重大な命令違反を犯した。俺はお前を拘束する」
「……」
 ルーベンスは唇を噛んだ。確かに命令違反だ。マリエル殺しは何があろうと全員始末しろと言われている。それを私事で先程拒否したのだ。その罪は重い。リプレスが不安そうにルーベンスを見つめていた。少年神父は歌姫に――こちらを睨みつけている半機械歩兵に悟られぬように――ぼそぼそと提案した。
「カノンとやりあって勝てる確率は凄く低い。ここは逃げよう」
「えっ!」
「いいから。一、二の、三で行くよ……せーの――」
 まずルーベンスが数える前に凄まじい銃声が轟いた。丁度足元に数発の銃弾がぶちこまれている。煙を上げている地面を見下ろし、ルーベンスの顔は青ざめた。動くなと言う警告だろう。次は本当に撃ってきかねない。
「は、はい。喜んで裁き受けちゃいます」
「そうしてくれ」
 そう言いながらカノンは銃口を地面でもがくディーズに向けた。そして全く表情を変えず二発。頭部、心臓を突き破り、ディーズを完全なる行動不能へと追いやった。こうしてまた、一人が処理されたのだ。
「敵を殺すのに、慈悲など必要無いハズだ」
「あ、ああ」
 リプレスは口を両手で押さえながらその場に弱々しく座り込む。涙をぽろぽろ流しながらまるで身内の死でも悲しむように。ルーベンスは切なそうな目で彼女のその姿を見ていた。これが教会、これが『セラフィム』。罪人には神の裁きを。殺すことにも躊躇してはならない。その掟を徹底されていない彼女にとって、この場面は苦痛以外の何者でもない。
 カノンはやたらと銃身の長い大型拳銃を腰に差し込んだ。そしてルーベンスに背をむけ、冷め切った声で言い放つ。
「神父ルーベンス。マルクトまで拘束させてもらう」
「う、うん。分かった。でもちょっと待ってくれないか? リプレスが落ち着くまで……待っててあげたいんだ」
「いいだろう。三分待つ。それ以上は待てん」
「ありがとう、十分だよ」
 ルーベンスはそう礼を言うと、リプレスの背を優しくなでた。彼女はただ泣きじゃくるだけだった。目の前でヒトが死ぬ事、彼女はそんな場面を見たくなかった。他人から見れば偽善、なのかもしれない。だが、他人事を他人事とは思わないルーベンスには偽善だとは思えなかった。いつしか、この少女に自分を重ねていた。この娘は心底全てのヒトを愛し、救おうとしていたのだ。まるで、もう死んでしまったマルクトの聖母『マリエル』のように。懐かしい彼女の姿をリプレスに、そして自分にだぶらせるルーベンス。
 かける言葉が見つからない――情けないな。
「……ルーベンスさん」
 自分自身に無力感を覚えていると、リプレスがかすれた声を絞り出した。優しい瞳でルーベンスは頭を撫でた。
「ルーベンスで良いよ」
「……ルーベンス、これからも貴方はヒトを殺すんですか……?」
 悲痛な訴えに、ルーベンスは目を背けたくなった。だが、逃げる訳にはいかない。少年は決して変わらぬ意志をたたえた瞳で頷いた。
「ああ、罪人は僕等が処理しなきゃいけない」
「それなら……一つ、お願いしても良いですか……?」
 リプレスが赤くはれた目をこちらにむける。ルーベンスは微笑みながら小さく頷いた。
「何かな?」
「助けられるヒトは、最大限に助けて下さい。見捨てなくてもいい人がきっと居るはずです……お願いです」
 その申し出に、ルーベンスは胸が締め付けられた気がした。この少女はきっと誰にも死んでほしくないのだろう。それが人間であろうと、亡者であろうと、助けられる命は最大限に助けてあげたいのだ。少年神父は頷くと、右手小指を立てて、リプレスの目の前に突き出した。
「小指、だしてみて」
「え? あ、はい」
 リプレスも右手の小指を目の前にだした。小指同士をがっちりと結ぶと、ルーベンスがまるで音の取れていない声で呪文を唱え始めた。
「ゆーびきーりげんまん、うーそついたーら針千本のーます! 指切った!」
「……?」
 リプレスは何か不思議そうな表情でルーベンスを見ていた。相変わらずの優しい笑顔でこのヒトは自分を見てくれる。どうやら彼は先程の呪文の意味を説明してくれるようだ。
「これはおまじないの一種でね。嘘をついたら針を千本、相手に飲ませる事ができるんだよ。つまり、僕が助けなきゃいけないヒトを殺してしまったとき、君は僕に針千本飲ます権利を得るんだ」
「……古風だが、そう言う呪文は存在する」
 横から水をさしたのは無表情のカノンだった。ルーベンスはそう言う事、と舌をちろっとだして笑った。リプレスも、自然に笑っていた。
 カノンは抑揚に欠けた声で少年に警告した。
「三分経過。いや、二十三秒オーバーだ。日没の三千六百秒以内にマルクトまで戻らなくてはいけない。急ぐぞ」
「あ、うん。じゃあ、行こうか、リプレス」
「は、はい」
 ルーベンスはずっと横たわったままだったマリアを背負い、歩き出した。するとふと足を止めて考え始める。何か欠けている気がしてならない。
「あれ? 僕、何か忘れてる気が」
「どうかしました?」
 リプレスが少年の顔を覗き込む。ルーベンスはそれに気付くと、気のせいだと思い、かぶりを振った。
「いや、大丈夫。何でも無いよ多分」
「そうですか?」
 リプレスはやはり不思議そうな顔でルーベンスを見ていた。

  ◇

 そうして、樹海での一件は幕を閉じた。
 マルクトへ帰る間、ルーベンスはずっと何かを考え込んでいた。そう、その物語はまだ暗い暗い樹海の中で続いていたのだ。
「……ここ、どこや」
 ライザがマルクトへ帰ってきたのはそれから三日後の事だったと言う。

  ◇

 天井から水滴が床を叩いた。ここはどんな季節であろうと何となく寒い。
 聖マルクト教会地下牢。この閉鎖区間にルーベンスは閉じ込められていた。
「ねーねー、一体僕いつまでこんなところで過ごさなきゃなんないのかなぁ」
 ルーベンスは冷たい石畳の上にあぐらをかいていた。心底不機嫌な表情で、鉄格子の向こう側に居る冷たい同僚に尋ねた。
「エリス・エドワードからのオーダーだ。あと二日はその中にいてもらう」
「今日でもう五日目だよー! もうちょっと美味しいモノ食べさせてくれても良いじゃないかぁ〜!」
「罪人に発言権はない。その中で黙っていろ」
 ここ、聖マルクト教会地下牢は、凶悪な悪魔などを収容する際にこの牢が使われていたのだが、今はどの牢も空っぽである。二年前に申請された亡者殲滅法のせいで、亡者を捕らえるのではなく、確実に死滅させる事が今の教会の方針だからである。現在、この牢は異端者などを閉じ込めておく為に使われている。
 恨めしそうな視線を感じていたが、冷たい同僚、カノンは眉一つすら動かさずにただひたすら直立していた。流石のルーベンスも無表情な彼に太刀打ちする事は出来ない。何しろ他の部分、特に射撃では絶対に勝てない自信があった。果たしてミディアンズを解放して彼に勝てるかすらも謎だ。彼、カノン・オペレイクスはそれだけ強い。
 ルーベンスが頭の中でカノンとの戦いをシュミレートしていると、薄暗い廊下に鋭い足音が響いた。
「その様子だと元気そうね、ルーベンス」
「エリス!」
 ルーベンスは立ち上がって鉄格子にしがみ付く。カノンが恭しく一礼した。その整いきった礼を見ながら鋼鉄の女神は微笑んだ。
「神父カノン。少し外してくれないかしら?」
「了解。だが、面会は誰であろうと十五分が限度。それ以降は――」
「心得ているわ」
 冷徹な部下の言葉に鋼鉄の女神は頷く。静かな微笑みをたたえて、一礼する部下を見送った。
「カウントを開始する」
 カノンはそう言い残し、階段を昇っていった。ルーベンスは早速、目の前の上司に状況を尋ねた。
「五日もこんなところに収容されるのはどうかと思うけどなぁ」
「これでもまだ軽い方なのよ。普通、命令違反にかせられる裁きは一年の収容。それを一週間に軽減してるんだから、感謝してほしいものね」
「そ、そだね」
 相変わらずこの女性にだけは頭が上がらない。押し黙らされたルーベンスを見て、エリスはふと真剣な眼差しで部下を見た。
「でも、あなたにとって二日後は無いわ」
「え? どう言う事?」
 ルーベンスは目を丸くしてエリスを見た。いつにも増して真面目な表情だ。
「二日後、教会上層部の人間は貴方を殺す気よ。やはり悪魔を教会内に置いておくワケにはいかない、だそうよ」
「ましてや命令違反までしたしね」
 暗く表情を沈めるルーベンス。自分の責任だ、覚悟はできている。だが、彼らに自分を殺す術などは存在しない。エリスは鉄格子の間から、そっと少年の頬を触れた。
「大丈夫。心配はないわ。貴方が逃げる方法が一つだけあるの」
「へ? あるの、そんなの?」
 ルーベンスは頬の温かい感触を感じながらエリスの顔を見た。先程とは違い、自信たっぷりの表情だ。そしてそれは、よからぬ事を考えている時に良く見せる顔だった。
「ここから東の海を越えたところに監獄島があるのは知っているわね」
「うん。確か、ラキア。囚人だけの島だね」
「ええ。貴方にはそこに行って貰います」
「はぁっ?」
 ルーベンスは間の抜けた、しかし叫びに近い声を上げた。この暗い地下牢にその声が木霊する。エリスは部下の気持ちを汲みつつも、真剣な眼差しを向けた。
 ラキアと言えば監獄島と呼ばれ、死刑よりも重い刑をかせられた悪魔や人間が収容される離島である。
「とりあえず、それしか逃がす方法がないわ。その為にはより凶悪な犯罪をしてもらわないとね」
「ま、ままままさか……」
「さて、ここでミディアンズを解放してもらいましょうか」
「そんな事だと思ったよー!」
 ルーベンスは再び叫ぶ。だが、エリスの表情は微笑んではいるもの、瞳の奥底はつめたい。
 ――このヒトはマジだ。
「さあ、はやく」
「うう、仕方がない」
「ちゃんと解放したら私の首を掴むのよ。それで、大人しく捕まりなさい」
「了解。それじゃあ」
 ルーベンスはしばらく気持ちの整理をしてから呟く。
 呪われた言葉を――
[ミディアンズ二十パーセント活性化開始、能力制御モードにて起動]
 閃光と共に鉄格子が景気良く破壊される。多少なりの結界はついているのだが、効力が弱った結界などルーベンスの相手にすらならない。エリスの首をつかんだルーベンスは心配そうに上司の顔を見た。
「だ、大丈夫か?」
 心配するルーベンスとは裏腹に、エリスはなぜか愉快そうに返事をした。
「ええ。はやく行った方がいいわよ。カノンが異変に気付いてくるわ」
「了解。悪魔使い荒いねぇ、無茶させて」
 やれやれとため息をつくルーベンスを見て、エリスは冷たくさらっと言い返す。
「いいえ、無茶してるのはこっちよ」
「そりゃごもっともで」
 地下牢の天井をケロベロスでぶち破り、その特異な身体能力を使い、一階の廊下に跳びでるルーベンス。ルーベンスが心配するまでも無く、彼は既に無数の武装された十数人からなる神父達に囲まれていた。舌打ちするルーベンス。このままでは蜂の巣か切り刻まれるかのどちらかではないか。神父の数は少なくは無い。よくもまあ、この狭い廊下に待機していたものである。ルーベンスは半分感心しながらも、これからどうするか考えていた。つかんでいるエリスが言うには大人しく捕まれと言うが、この状況で捕まったら確実にここで処刑されかねないではないか。
「……何してるの、降参しなさい。あとは私が何とかするわ」
 小声でエリスが呟く。勿論、悪魔相手に動揺している神父達には聞こえていない。ルーベンスはしぶしぶエリスの首を解放し、両手をあげた。そしてミディアンズを封印する。
 縮んだ少年を神父達が捕らえるのは簡単だった。なだれ込んできた神父の波に、ルーベンスは殴られ、蹴られた。
 ――痛い……なぁ! でも我慢、我慢だ! ルーベンス!
 自分に言い聞かせながら一人の神父に何かを訴えているエリスを見た。一体何を言っているのだろうか。いや、そんな事はどうでもいい。彼女は信用してもいい女性だ。きっと今に助けてくれる。今はただこの暴力に耐えるだけだ。じっと、我慢。
 ――にしても痛い! いくら不死身だからってやりすぎ!
 神父達の暴力はエスカレートする。だがこちらからは手は出せない。一度手を出してしまうと、余計面倒な事になりかねないからだ。惨めにも殴られ、蹴られるルーベンスを見ながら、ライザが煙草の煙を吐いた。
「やっぱり難儀なやっちゃなぁ」
 気のせいだろうか。ライザの顔に切り傷が沢山ついている。森で迷ったからだろうか?
「おいおい! そろそろそこ等辺にしとけ……「やめなさい、皆の者」
 ライザが仲裁に入ろうとしたが、それを遮る静かな、だが重々しい声が神父達の動きを止めた。その声はまさに鶴の一声であった。
「グ、グレーデ様!」
 ――グレーデ五世。マルクトを治める賢王である。
 教会の最高実力者でもあり、全てにおいて高い発言力を持つ人物でもある。
 一分の隙をも見せないその険しい表情。王といっても豪華な服装をしている訳でもなく、大司教のよく纏う僧衣に、神々しい赤の宝石が先端についた杖を持っているだけだ。
 誰もがその威圧感溢れる姿に平伏した。グレーデは恭しく頭を垂れる神父達を見回し、険しい表情のまま状況を尋ねた。
「状況を申せ。これは何事かね」
「はっ! この男、悪魔ルーベンスが突如脱走を試み、シスターエリスを人質に……」
「解放されているようだが?」
 グレーデは発言した年輩の神父を睨んだ。確かにエリスは無傷で解放されている。そしてルーベンスの心配そうな表情を見れば大体の事の予想は出来た。
「エリスよ。お主がルーベンスを逃がそうとしたのだな」
「……!」
 バレていた? エリスは外見こそ無表情なれど、内心苦笑していた。流石は賢王と呼ばれるだけはある。全てを見透かすようなその瞳に、エリスは深々と頭を下げた。ここまでくれば最早言い訳など通用しない。
「申し訳ございません、しかし我が部下、ルーベンスは……」
「よい。私も二日後のルーベンスに対する決定を不満には思っていたところだ。なぜ、悪魔だからと言うだけで殺さねばならない。この者、ルーベンスは貴様等の同志ではないのか?」
 国王が周囲の神父達を叱咤した。だが、先程の年輩神父だけは反論を講じた。
「恐れ多くも国王! こやつは悪魔! 悪魔は残虐な性格と聞いております! 本性をさらせば我々に牙をむいてくるやもしれぬのですぞ!」
「ならば、そのような教会組織にいたくないと言う者は、自分から出て行け」
 意に反する王の言葉。一同はただ唖然としていた。
「"神父"ルーベンスと戦えぬと言うのならば、出て行けと申したのだ」
「な……!」
「この戦いを終わらせる為には悪魔、いや亡者との共存が必要ではないのか? 実際、ルーベンスが我々に牙を剥いた事は無い。それはこの五年間でよく分かる事だ」
 王の言葉はもっともだった。確かに、五年前マリエルにこの教会に連れてこられてからルーベンスは一度も教会の人間を傷付けた事は無い。それは皆も十分に分かっていた。だが、問題はルーベンスにあったのではない。マリエルと一緒に連れてこられた悪魔があと二人いたのだ。大まかに言えば、マリエルを殺したのはその悪魔の二人。アスラフェルとタナトスなのだ。事件の元凶はあの悪魔二人。ルーベンスの兄達にあった。
 だからこそ、神父達は悪魔に対して異常なまでの敏感さを持っていたのだ。マリエルを殺してしまった兄達のせいで、ルーベンスは迫害され続けたのだ。そんな彼をよく理解していたのが特務機関セラフィムの派遣員達、そして賢王グレーデ五世だった。
「そしてまた個々の人間では亡者には勝てない。我々には絆の力が必要である、そうではないのか?」
 グレーデは問いを続けていた。情けない神父達には返す言葉が無い。賢王はそっとルーベンスに近寄った。
「大丈夫か?」
「うん、大丈夫」
 差し伸べられた手を掴むルーベンス。大きくて暖かな掌だ。立ち上がったルーベンスはとりあえず口元の血を腕で拭った。殴られて腫れ上がった皮膚はと言うと、もう修復を始めていた。賢王は平伏す神父達を眺めて命令した。
「皆、散れ。彼の処分についてはエリスと話す。良いな?」
「はっ!」
 エリスは更に頭を深々と下げた。神父達はそれ以上何も言う事ができず、渋々とその場を後にしていった。賢王は神父達が各自の仕事場へ戻っていくのを確認すると、今度は優しい瞳でルーベンスを見た。
「大丈夫じゃったかな? ルーベンスよ」
「いつもゴメンね。助けてもらって」
「なぁに、気にする事はないて」
 エリスはいつも思う。この老人の表と裏の差が激しい事を。建前では険しい表情を作っているが、本来はこのような気さくな老人だと言うの事を。そんな事を思っているエリスの表情をじっと眺めるグレーデ。エリスは心を見透かされたのかと思い、無意識に表情を強張らせていた。
「何でしょう?」
「お前の事じゃ、ルーベンスをラキアへ送る事にしたんじゃろ?」
「そ、そこまで分かってたの」
「賢王の名は伊達じゃないって事だね」
 ルーベンスが笑いながら言う。もう殴打された傷は完全に塞がっている。腫れもひいていた。ずれた鉢巻をしっかりと頭に締めなおすと、少年神父は立ち上がった。
「さてと、問題はどうやって島まで行くかだね」
「それについては問題ないわ。船は用意してある。それに先程の騒動もあって、処刑まではなくとも、ラキアへ送るとなれば皆も納得するでしょ」
「そうじゃの。そこら辺はワシに任せておけ。邪魔はさせんぞ」
 グレーデは歳に似合わず豪快な笑いを浮かべた。ルーベンスは深くため息をつく。
「はぁ、囚人の島って言うぐらいだからきっとムッさい男が沢山いるんだろうなぁ……あんまり乗り気じゃないなぁ……」
「誰も貴方一人で行かせるとは言っていないわ。勿論、"犯罪者の監視役"と言う事で同行者をつけさせて貰うわ」
 その言葉にルーベンスの表情がぱっと明るくなる。花でも持たせてもらえば向こうでも何とか生活していける。希望の光を宿らせながら少年は上司に問い詰めた。
「リプレスかな? ライザ? いやいやマリア?」
 鋼鉄の鬼上司は、部下の希望を打ち砕く鉄槌を既に振り下ろしていた。
「全員ハズレよ。カノンに頼むわ」
「ええええええええっ!」
 凄まじい叫び声が教会内に響き渡る。グレーデがすまなさそうに笑った。
「いや、護衛としては彼が適任じゃろうて。人間でも躊躇なく撃ち殺せる彼なら」
「いやさり気なく危ない発言しないでよ!」
 まさか同行者がカノンとは。実はルーベンス、彼と組むのには抵抗があった。何しろ人を殺すということに何の概念も持っていないのだ。命令あらば仲間であっても平然と撃ち殺す鋼の精神。体の半分以上を機械化しているのだが、脳の部分はそれ程手を加えていないと聞いている。人間としての感情も少しは残っているはずだった。彼の特徴と言えば、時間に正確であり、喜怒哀楽の感情が欠落している事だ。彼の過去に何か理由があるのだろうとは思いつつも、それを知っているのは指揮官であるエリスと国王であるグレーデだけ。その二人も彼の過去については一切語ってくれない。一体、あの機械のような男に何があったのだろうか。
「とりあえず、頑張りマス」
「その意気じゃ。では、出発はいつにするかのう」
「早いほうがよろしいかと」
「うむ。なら明日じゃな」
 グレーデは即座に決断した。ルーベンスは再び深くため息をつく。いくらなんでも早すぎではないか? いや、それ以前に、
「はぁ、何だって僕が……」
「でも、無事に囚人の島から脱出できれば貴方は自由の身よ。貴方を追いかけるヒトはいないわ」
 エリスが少し寂しそうに言った。確かに、囚人の島は無期懲役を言い渡された極悪犯罪人の難攻不落、脱出不可能な監獄島として有名だ。だが、ルーベンスのミディアンズの力があれば脱出は可能なものとなるだろう。そうして島から脱出すれば彼を縛るモノは何も無い。監獄島に入ると言う事は、エリスの指揮下からも離れる事になるのだ。
 つまり、本当に自由となる。
 彼女の寂しげな表情は、ルーベンスがいなくなる事が寂しいのだろうか? それとも有能な戦力がいなくなるのが寂しいのだろうか。どちらにせよ、その気持ちが分かるのはエリス自身だけである。
「明日までルーベンスは牢屋で待機。今日の夜に皆に発表しよう」
「ええ。それが良いでしょう」
 二人の上司は顔を見合わせ頷いた。ルーベンスはそこに居合わせたライザに連れられて再び地下牢に逆戻りした。そしてその夜。ルーベンスのラキア行きが決定し、翌日、船に揺られながらルーベンスは監獄島へ向かうことになったのだった。


                                             『GREEN EYE』 END