―― 第二部・序章 ――


「誰もいないよー!」
「忙しいやっちゃな」
「ええ。後先を考えない子だから」
 マルクトへ続く街道の休憩所。ベンチの並ぶ公園のような場所で、普段は旅人達の憩いの場となっている。しかし、不思議な事にそこには誰もいなかった。貸切のようになった休憩所へ、子供がはしゃぐように飛び跳ねながら向かう少年神父。
 彼の名はルーベンス。マルクト・教会特務機関『セラフィム』の神父。そして子供のような彼を呆れた視線で見ている身長の高い男と美しい女。
 ゼブル教会神父の、ライザ。漆黒の女神、ヘクセン。二人ともルーベンスに同行する彼の理解者である。
 ルーベンスは貸切の広いベンチに背負っていたコンテナを下ろした。相変わらずきょろきょろするのを止めないままに、自分も腰をおろした。
「いやぁ、極楽極楽」
「あんま油断したらアカンで。この頃は聖王国の近辺にも亡者が大量発生らしいで」
 一息も二息もつきながら休息する少年に、ゆっくりと歩いてきたライザが警告する。ゼブルを出る前に聖王国発の情報紙に目を通したのだが、ここ最近、どう言ったわけか、マルクト近辺にも大量の亡者が出現するようになっているとその情報紙には記されてあった。聖王国マルクトといえば、教会より何より、まずその領土を囲むようにして張られる"結界"が強力な事で知られている。なぜ亡者が大量発生するのがおかしいのかと言うと、その結界は強力な故に、付近一帯にすら亡者を寄せ付けなかったからである。ここ数日で、結界内部にまで喰人鬼が侵入していると言う文面を見たときは、流石のルーベンスも危機感を覚えていた。何者かが結界の一部を破り、そこから亡者を招きいれたとしか考えられないからだ。これについては二つの仮説が考えられる。まずは教会内部に"ユダ"がいて、結界の内側から細工をしたという事。そしてもう一つは、強力な力を持った悪魔クラスの亡者がマルクトへ侵入したと言う事。前者は考えられにくい。亡者を内部に入れるなど、その人間にとっても自殺行為だからである。となると後者――ルーベンスは慌ててかぶりを振った。考えたくなかったのだ。あの悪魔達がマルクトへ侵入しているとなると、近いうちに大虐殺が開始されてしまう。
 確かめる事が増えたので道中急ごうと言っていたのは少年だったが、すっかり休憩所でくつろいでいて、従士は本来の目的を忘れたのではないかと心配する。
「ルーベンス。気をつけた方が良いわ。ここももう安全ではないのよ」
「もう、心配性だなぁ二人とも」
 警告を呑気に笑い飛ばしながら、ルーベンスはついにベンチの上で横になり始めた。
「「(誰のせいだ)」」
 二人は無性にこの少年を殴りたくなるのを抑えながら、それぞれがため息をついた。ちょっと背の高い木の茂みに囲まれたこの休憩所。付近には澄んだ水色をした小さな湖畔があり、そこで丁度ここを訪れていた渡り鳥達が羽を休めていた。元々木の上に住んでいる鳥達のさえずりもあり、少年はうとうとしていた。
 旅人にとって休憩所は安らげる場所である一方、油断しやすい場所である事を忘れてはいけない。この美しい風景とは裏腹に、油断から盗賊に襲われ、殺されてしまうなんて言う話は腐るほど存在する。流石に盗賊も亡者には勝てないらしいのか、辺りに人間の気配はない。
 だが、生き物ではないそれは存在してた。
 茂みが激しくゆれ動くと、一匹の喰人鬼が草木を掻き分けてもの凄いスピードで突進を仕掛けてきた。いち早くそれに反応した黒尽くめの神父が懐から旧式回転拳銃を抜きさり、大きく開かれた喰人鬼の口へと銃口を突きつける。
「ほら、言わんこっちゃないやろ」
 そう言いながら、必死で銃口を噛み砕こうとする亡者の口腔を逆に銃弾で吹き飛ばすライザ。四散した亡者の頭蓋は空中で灰と化し、後には硝煙を吐き出す銃口だけが残った。
 気がつけば辺りから生きる者を恨めしむ呻き声が聞こえる。ルーベンスは素早く体を起こしながら、従士と神父の顔を見比べた。
「え? もしかして囲まれてるの?」
「そうや」
「そうね」
 二人の声が微妙な協和を見せた時、ルーベンスの掌中には銀光放つ銃が握られていた。肩越しに背後へと掲げられた銃口が鈍い光を放つ。
 ――轟音。
 どうやら背後から不意打ちを仕掛けようとしていたらしい、茂みに隠れていた亡者は倒れながら無残に灰へと還っていった。ルーベンスはやれやれとベンチから腰をあげると振り向いた。その顔は油断していた事に反省する顔では無く、むしろ休息を邪魔された時の不機嫌なそれだった。むすっとしながら、ゆらゆらと近付いてくるシルエットに不愉快な視線を送る。
「ヘクセン。数は?」
「十、正確に言えば十一」
「それだけか。ゼブルの時に比べればマシだね」
 従士の報告を聞いて、少年の表情に余裕の笑みが浮かぶ。その横顔を眺めながら、ライザは煙草に火をつけながら訊ねる。
「どないするんや?」
「全滅させる。僕の責任だ、手はださないで」
 少年は即答し、天使のような微笑を浮かべると無造作に腕を振り上げた。手に握られているのは銀の狼の異名をとる銃、シルバーウルフ。狼は既に獰猛な咆哮をあげようと、向かってくる亡者三匹を視線で射抜いている。
 ルーベンスはしっかりと狙いを定め、祝福と浄化の言葉を紡ぐ。
「神とセラフィムの名の元に、汝らに汚れなき未来と浄化を――エィメン」
 そう言い終わると、もう我慢の限界だと言わんばかりに銀の狼が咆哮をあげる。その顎から撃ちだされた三体の死神が亡者の心臓を次々と喰いちぎったかと思うと、今度は振り向き様に二発。三匹のグールが灰塵と化すのとほぼ同時に、二匹の亡者の頭蓋が綺麗に吹き飛んだ。銃身から勢い良く跳ね飛んだ空薬莢が石畳に転がる音を聞きながら、ルーベンスは軽く手首を振った。軽く煙を上げながら地面に落ちた弾倉。残る亡者の数を計算しながら把握に新しい弾倉を押し込んだ。
 ライザはただ何の心配もなさそうに紫煙を吐きながら、ルーベンスの戦闘を観察している。従士も言われた通りに待機していて、動く気配すら見せない。
 今度は背の高い神父の側に生い茂っていた草が微かに揺れた。すかさず銀狼と視線を振り上げると、指先に力を込め、引き金を絞ろうとする。だが、抗議の声をあげたのは、茂みの向こうから聞こえた幼い少女の声であった。
「あうー! 撃たないで下さい!」
「……!」
 反射的に銃口を背けたルーベンスは、ライザを背後から襲おうとしていたグールに照準を合わせて、射殺する。背の高い神父は自分が危険だった事に気付くと、少年を見て、すまん、と手を挙げた。
 軽く少年が安堵の息をつくと、茂みから小柄な天使が這い出てきた。ゴムで整えられたツインテールは薄っすらと茶色に染まっている。年の頃はまだ十代前半といったところだろう。ほとほと困っているらしく、その澄んだ金色の瞳にはうっすらと涙が滲み出ていた。両手を挙げながら声を震わせて抗議する。
「撃たないで〜撃たないで〜!」
「驚いたなぁ」
 拳銃をおろすと、ルーベンスは少女の方に歩み寄る。自分よりも更に小柄なその少女に、少しかがんで話し掛ける。
「大丈夫?」
「はい、何とか……」
「なら良かった。間違って撃ってたら一大事だったからね」
 ほっと安堵したのも束の間、ルーベンスは脇下から銃口を振り向けた。背後の茂みが揺れたのを察知し、銃爪を引いたのだ。銀の狼が吐き出した祝福弾は、少年の背後から飛び掛ろうとしていた亡者の心臓を撃ち抜いた。すると今度は右、湖の中から水飛沫を上げながら亡者が三匹飛び出してきた。ルーベンスの目が驚愕に見開かれたのは、武装、そしてその素早い身こなしを過去に見たことがあるからだ。喰人鬼では考えられないその動作に、少年はゼブルで遭遇した改良された亡者を思い出していた。驚きからか、ルーベンスの判断が一瞬鈍る。遅れながらも銃口を振り上げる少年に、武装したグールは容赦なく距離を詰める。
 ――間に合うか……!
「ルーベンス君、伏せてぇ!」
「えっ?」
 ルーベンスは名前を呼ばれ、一瞬少女に向けて振り返った。小柄な少女は立ち上がり、先程までの泣き顔はどこにいったのやら、凛とした表情で右腕を持ち上げた。その華奢な右腕に装着されていたのは、金色を輝かせる武装手甲、アームガントレットであった。その先端が裂け、その内部から不恰好な銃口がその顔を覗かせていた。
「それじゃあいきますよぉっ!」
「な、なになにっ!」
 彼が咄嗟に地面に這い蹲ると同時に、少女のガントレットが無数の咆哮をぶちまけた。まさにガトリング砲を思わせるが如く乱射は、ルーベンスの真上を通過した後、亡者達の身体を次々と蜂の巣にしていった。少年は愕然としながら武装グール達がなす術もなく死神に屠られるのを視認すると、この少女に恐怖を覚えた。亡者は既に四肢を吹き飛ばされ、原型をも止めぬ肉の塊になりかけていた。銃弾の豪雨を浴びれば、あのような状態になっても無理はない。ルーベンスが必死に頭を守りながらがくがく震えていると、目の前に粘着力のある球体が転がってきた。その球体にある黒い点がもぞもぞと動いたのを見て、ルーベンスはこれが亡者の眼球だと気付く。ゴキブリじみた素早さでその腐った眼球から離れると、いつの間にか少女の横に辿り着き、その顔を仰ぎ見た。凛としたその表情は、どこか思い詰めたようにも見えて、危なっかしい気配を漂わせていた。すると少女の肩を大きな手がつかんだ。
「お、オイ! 嬢ちゃん! ちょいやり過ぎやで!」
「えっ……」
 ライザの怒鳴り声に気付き、少女が命ずるがままに銃弾を吐き出していたガントレットは、しんと大人しくなる。ぽかんと自分を見上げる少年の顔を見た後、既に肉の塊となった亡者を見て、肩を落とす。
「またやっちゃった」
「無事か、ルーベンス」
 ひとまず少女は置いておいて、仲間の状態を確認するライザ。ルーベンスは口を引きつらせながら頷いた。
「嬢ちゃん、名前は?」
「あたし、ですか?」
 立ち直ったのか、振り返って自分の顔を指差す少女。すると、ヘクセンがその少女を見て思わず声を漏らした。
「貴女、まさか」
 従士の様子を見て、ルーベンスもようやく落ち着いたらしく少女の顔を見る。
 ――はて、どこかで見たような……
 ルーベンスとヘクセンの考えが一致したのと同時に、感激の声をあげたのは小柄な少女だった。
「もしかしてヘクセンさん?」
「ええ、でも何故私の名前を?」
「忘れましたかぁ? ひっどいなぁ〜もう」
 ヘクセンが不可解そうに自分を見ているのに気付き、少女は頬を膨らませた。すると長い間解けなかった問題が解けたかのように、ルーベンスが掌を打った。
「君、確かマリア・ジョイントか!」
「ルーベンス君も久しぶりだね。全然変わってないからあたしはすぐ分かったのに」
 マリアと呼ばれた少女はやはり不機嫌そうに少年を見る。確かにルーベンスはこの少女と面識があった。しかしそれは二年前の話であり、その二年は、あの幼かった少女を少し成長させ、見違えるようにするには十分な時間だったらしい。その少女の顔をまじまじと見つめていたヘクセンも、やっと思い出したように訊ねた。
「貴女、"ダブルガントレット"のマリアなの?」
「ご名答ですよぉ! ヘクセンさん、お久しぶりですね」
 ――"双手甲"マリア。
 マルクト教会特務機関『セラフィム』所属、見習いシスター。






















 ――― 『1』 ―――

 『A DIVA』
                ――歌姫――


「いやぁ、それにしても大きくなったね。前会った時は確かこれくらいだったかなぁ」
 ルーベンスは掌を自分の胸の下辺りに浮かべると、古い思い出を懐かしむように微笑んだ。しかしマリアはその掌の位置が気に入らなかったらしく、ぷくっと頬をふくらませた。
「むぅ、そんなに小さくなかったもん!」
「ルーベンス失礼よ。このくらいだったはず」
 決してヘクセンに悪気はなかった。しかし彼女の掌は、ルーベンスが先程記した場所より、ほんの僅か二センチ程上のところに位置していた。マリアはフォローになっていない味方を見て、がっかりしたように深く肩を落とした。けらけら笑いながら三人の様子をみていたライザが腹を抱えて言った。
「お前ら、会話がアホやなぁ」
「君に言われたくないね」
 ルーベンスがすかさず反撃する。何だと、と拳をまくりたてるライザは無視して、少年は再び少女をまじまじと見つめた。
「それにしてもマリア、君が教会のシスターになったのは知らなかったな」
「人生、分からないものね。新聞では大活躍だったみたいだけれど」
 ルーベンスとヘクセンは幼い少女とお互いの顔を見比べながら言う。確かこの少女と最初に出会ったのは、おおよそ二年前だっただろうか。両親を亡者に喰われて亡くし、一人マルクトの城下町を彷徨っていた所をルーベンス等に保護されたのだ。まだその当時十歳の彼女にとって、ルーベンス達は救いの天使に見えたに違いない。
 マリアの話によると、二ヶ月前、ルーベンス達が丁度派遣に出された時に彼女は教会裏組織に入隊。そして見習いシスターとして現在の活動に至る。そこまでなら、どこにでもいるただのシスター止まりなのだが、しかしこのマリア、凄まじい才能からなのか、射撃力、腕力が共に秀でている。何しろ着任してからと言うもの、一ヶ月であの鬼上司エリスに気に入られ、教会でも今だ八つしか製造されていない"アームガントレット"を託されるくらいの実力の持ち主である。
 そして、その一対のアームガントレットで亡者どもを浄化する姿から、いつしか彼女は『双手甲』、"ダブルガントレットのマリア"の異名で呼ばれていた。この事はゼブルの情報記事にも載っており、ヘクセンはその記事に目を通していた為、彼女の異名を知っていたのだ。
 マリアは先程ガントレットで亡者を吹き飛ばした果敢さを思わせないか弱い瞳で、今更深い安堵の息をついた。
「いやぁ、でも助かりましたぁ。沢山の亡者さんに襲われてどうしようか迷ってたんです」
「そいつは良かったなぁ、嬢ちゃん。この慌てんぼうの小僧によう礼言うとき」
 皮肉を精一杯含み、ルーベンスを横目で見ながらライザが言う。その皮肉に気付いたのか、少年は不機嫌そうな顔で反省している様子もない。
 するとマリアが目の前に立ち、深々と頭を下げた。
「助けてくれてどうもありがとう」
「え、ええーと……どういたしまして」
 少女の感謝の極みを浮かべた笑顔を見て、偶然通り道で亡者に遭遇し、これまた偶然助けたとは、とてもではないが言えなかった。
 しばらく道なりに街道を歩いていると、少し急な坂を越えた所で、巨大な城壁がその姿を現した。
 ――聖王国マルクト。
 結界に守られた聖なる国。亡者どもの侵攻を許さず、結界を破られたとしても、そびえ立つ城壁が更に城下町と王城を守っている。そもそも結界とは、瘴気や邪気などと言った"負"の風を浄化するシステムで、聖王都を囲むように東西南北とそびえ立つ石柱から発生させている。古代の遺跡から発掘された"遺産"なだけあり、まだその原理は解明されていないが、どうやら特殊なエネルギーフィールドを発生させ、負の風を打ち消しているようだ。
 その石柱の前まで来て、ライザは高くそびえ立つそれを仰いだ。
「これが結界発生装置かいな」
「うん、皆はパラディウム、なんて呼んでるけどね」
 ルーベンスはやたら肩をさすりながら説明した。ヘクセンも同様だ。顔が青ざめて気分がすぐれていないようだ。ライザは素早くその様子を察すると、少年の肩を叩いた。
「大丈夫か? 顔色悪いで」
「ああ、僕、こう言う結界だとか護符だとか言うのに弱くてね」
「右に同じ」
 ヘクセンが自嘲するようにライザを見た。普通の人間ならばまず問題はないはずだが、人間ではない彼女にとって、この結界は災厄以外の何者でもないようだ。
 案内係のマリアは一人先に歩きすぎてしまった事に気付き、慌てて向こうの方でその小柄な体をぴょこぴょこと跳ねさせている。ルーベンスはその姿に優しく微笑むと、急ごう、と一言言って再び歩き始めた。ライザは解けない謎でも抱えているかのように口を曲げると、主について行く従士の後を追いかけた。

 風が草木を撫でていた。爽やかな音が耳に囁くのを感じて、ルーベンスは金髪をかき上げた。ふともくもくと漂う紫煙が鼻腔をくすぐり、思わず咳き込んでしまった。
「もうライザ! こんな良い風が吹いてるところで煙草なんて吸わないでよね」
「ワイの勝手やろ」
 上機嫌だった所を邪魔された子供のように頬を膨らますルーベンス。ライザは悪びれた様子もなく、ただ紫煙を吐くだけだった。
 目の前には大きな城門が待ち構えていた。大きく開かれたその口は、草原から流れる新鮮な空気を吸い込み、城下町へと流し込んでいる。門番らしき甲冑を身に纏った二人の兵士がこちらに駆け寄ってきた。
「通行所の提示をお願いします」
「はい、これ」
 ルーベンスが懐から身分証明書を取り出すと、門番の顔が青ざめた。しかし、どこか尊敬するような眼差しで少年を見ると、恭しく一礼をした後、どうぞお通りください、と道を開いた。
 ライザは、ある程度兵士達と距離の離れた所まで歩くと、突然口を開いた。
「随分怖がられてるんやな」
 その一言を聞いて、ルーベンスが困ったように笑う。
「彼等にしてみれば僕は上司だからね。聖職者は騎士より上の位だから」
「ふぅーん……」
 煙草を加えながらライザの目に鋭い光が灯っていた事に、その場にいる全員は気付けなかった。
 ――聖職者は騎士より上の位だから。
 本当にそれだけの理由であんな青ざめた顔ができるのだろうか。黒い丸眼鏡を装着すると、ライザは再び紫煙を吐いた。

 マルクト城下町。世界中で最も人口の多い場所である。
 それだけに商売の繁栄する街であり、昼間は行き交う旅人や声を張り上げる商人で活気付き、夜は静かだが酒場が開くので街の明かりが消える事はない。
 相変わらず行き交う人々の顔は変わっているとは言え、その人の多さは変わっていない事に、ルーベンスは安堵のような息をついた。
「二ヶ月前とは全然変わってないみたいだね」
「うん。何も変わってないよぉ! 変わったと言えば……そうだなぁ」
 考え込む少女を見て、三人は彼女の顔をまじまじと覗き込んだ。それに気付く様子もなく、しばらく思考を終えたかと思うと、マリアはにっこりと微笑んだ。
「歌姫が来た! って事ぐらいかな」
「歌姫?」
 その聞き慣れない単語に興味を持ったのは、ルーベンスではなくヘクセンだった。少女は小さく頷くと続けて説明を始めた。
「何でも世界中を旅してるらしいですよ。歌も半端じゃなく上手いんです! 毎日夜になるとマルクト中の酒場を歩いて歌っているんです」
「へぇ、それは是非とも聞きたいね。ヘクセン」
 ルーベンスはゼブルの聖歌隊を思いながら、ヘクセンに同意を求めた。従士はこくりと頷くが、しかし、頷いた後には釘を刺すように冷たい声で続けた。
「エリスに捕まらなければの話よ。あまり期待しない事ね」
「そだね」
 ルーベンスは鋼鉄の鬼上司の姿を想像しながら、溜め息混じりに苦笑する。実際、今この時季にこの国へ帰ってくると言うのは重大な命令違反なのだ。ルーベンスに課された任務、五人の裏切り者全てを抹消するまで帰ってきてはならない。教会としてはそれが大前提だった。命令違反は『セラフィム』上層部の意地悪な老人達が後で五月蝿いから、とエリスにもきつく言われていた。
 エリスは話せば分かってくれるはずだが、どちらにせよ多少は殺されるのを覚悟しなくてはならない相手だ。ルーベンスはぞっと背筋が寒くなるのを感じながら嫌そうに教会へと足を運ぶ。
 ここ、マルクトは聖王国と呼ばれるだけあって、教会が武力と知識の象徴を司っている。この国の王である『グレーデ五世』も教会の裏で実権を握る人物である。王なくして教会は成り立たず、教会無くして王は成り立たない。どちらかが拮抗した権力を行使するからこそ、マルクトは平静を保っているのであった。教会と言う組織がなくなると言うのはこの国が崩落すると言う事でもある。
「よく考えてみれば、おかしな話だよね」
 国王と教会が同等の権力を持つなど、どこの世界でも聞いた事はない。マルクトの教会はそれ程の権力を持っているということなのだろうか。ルーベンスはふと今まで考えもしなかった事を考えようとしたその時、マリアの背中にぶつかった。
「あ、ごめん」
 振り向くとマリアはいいえ、とにっこり微笑んだ。どうやら知らぬ内に教会の前に立っていたようだ。それに気付くとライザとヘクセンも立ち止まった。
「着いたよ!」
「久しぶりだなぁ、教会」
 ルーベンスは目の前にそびえ立つ西洋的な作りの建物を見る。
 マルクト教会組織本部。
 様々な機関から成り立つこの教会の内、目的地は殲滅機関と呼ばれた『セラフィム』、鋼鉄の女神エリスをリーダーとする特務機関である。
 ルーベンスは教会の重い扉を押して中に入る。幸い、赤い絨毯が敷かれた廊下には誰も居ない。ここでエリス以外の上司に見つかってはまずい。発見されれば、すぐさま命令違反として異端審問にかけられかねないからだ。ルーベンスは必要以上にこそこそと忍び歩きで廊下を進んだ。その後ろからは堂々とヘクセン、マリア、ライザが続いている。よりによって『セラフィム』の特務スタッフ待機室はこの長い廊下の一番奥だから面倒だ。ひょこひょこと姿勢を低くしながら、ついには小走りしだしたルーベンスの背中を見ながらマリアはヘクセンに尋ねた。
「何でこそこそしてるんでしょ?」
「……さあ」
 ヘクセンはその答えを知っていたが、あえてそれを話さなかった。あまり声をだすと、誰かが気付いて出てくる恐れがあったからである。ライザは赤い絨毯の引かれたこの廊下を歩きながら怪訝そうな顔をしていた。人の気配が少ないのだ。この三十ほど、通路の両側に並ぶ部屋の扉。一つずつの部屋から最高でも五人ほどの気配しか感じられない。それ程までにこの教会の職員は忙しいのだろうか。思考を悟られぬように小さな黒眼鏡のブリッジを押し上げる。
「や、やっとついた」
 教会の廊下を歩くのにこれだけ苦労したのは初めてだった。ぜえぜえ言いながらルーベンスは表札に"セラフィム"と書かれた部屋の扉を開ける。
遅れながら歩いてきたヘクセン達も部屋に入ろうとするが、ただならぬ銃声が轟いたかと思うと、部屋の中から慌てて逃げ出す少年と無数の銃弾がが飛び出してきた。床をゴキブリのように這い蹲ると、ルーベンスは恐怖に顔を真っ青に染め、追っ手のシルエットを仰ぎ見た。
「あ、あわわわわわわ……!」
「誰が帰ってきて良いっていったかしら?」
「ご、ゴメンなさいっ! いやホント、これにはふかぁーい訳があってだねぇ!」
「命令違反はここでは重大な犯罪よ」
「うわぁぁぁん!」
 部屋の中から見た事もない装飾の施された狙撃銃がその長身を現した。ライザはそのライフルと、涙目で恐怖に支配されてしまっているルーベンスの顔を比べ見た。
「ルーベンス。どないしたんやお前」
「え、エリスがぁ!」
 別の人間の声が聞こえたのを不審に思ったのか、エリス・エドワードは怪訝そうな表情で部屋から姿を現した。だが、ライザの方には一瞥をくれただけで、すぐに少年へと視線を戻す。軽く肩にかかり、ふわりと、しかし鋭い光の輝きを返す蒼の髪。翠の瞳は銃口と共に無慈悲に、そして真っ直ぐルーベンスを見下ろしている。僧衣と首から提げたロザリオは几帳面なまでに整っていて、その凛とした冬の湖畔を思わせる表情は、見る者を魅了する美しさを備えていた。だが、語彙の足らぬ若者なら、誰もが彼女を美しいの一言で表現してしまうだろう。
 ルーベンスは必死で脅威から逃げようと床を這いながら後退するが、ついに背後の壁にぶち当たる。目は恐怖に潤み、それに身体もがたがたと震えている。その様子を見て、エリスはやれやれとかぶりを振ると、母親のような微笑みで少年を見つめた後、踵を返した。その背中から聞こえてきた声は、先程までの冷徹さを完全に欠いた柔らかいものだった。
「……まあ、良いわ。中にお入りなさい」
「え、いいの?」
 一度は下ろされたライフルが再び持ち上げられ、銃口はルーベンスの額を正確に狙っている。再び跳ね上がって驚いたルーベンスは、エリスの美しさに似合わない、静かな激怒の表情を見た。
「今後、こんな行動をすればただでは済まない。覚悟しておきなさい」
「は、はいぃ!」
 ほとんど悲鳴のような声をあげて返答した彼に、一瞬だけだが微笑を贈るエリス。そしてその身をひるがえし、部屋の中へと戻っていった。少年神父と鋼鉄の女神のやりとりを見ていたマリアとライザは、ただただ唖然としているだけであった。ヘクセンはと言うと幾度となくこの様な状況を見てきているため慣れているのだが、初めて見る者にとって、鬼上司の印象をますます恐怖付ける結果となるのは言うまでも無い。
 しかし、予想に反して部屋の中から今度は優しい声が聞こえた。
「そこの三人。突っ立ってないで中にお入りなさい」
「……ルーベンス、立てる?」
 おずおずと部屋に入るライザとマリアを横目に、ヘクセンはルーベンスに手を差し伸べた。少年神父は何とも情けなく笑いながら従士を見た。
「あ、あはは……だ、大丈夫だよ」
「それは良かった」
 ヘクセンに助けられながら、ルーベンスはやっとの事で立ち上がった。既に部屋の中に居る二人は、エリスを前に緊張しているようだ。遅れて部屋に入る少年神父とその従士。扉を閉めると、久しぶりの職務室を見回す。
 いつ見ても広い部屋である。ゼブル教会の大司教ヴァイドの部屋よりかは、遥かに大きい。今までに片付けてきた膨大な数の作戦報告書を並べる本棚と、机が幾つか並んでいる以外には殺風景な部屋である。机の数は十、これはつまりスタッフの数を示している。そして部屋の一番奥のど真ん中にずっしりと構える大きな机。この机の主がセラフィムの司令塔、エリス・エドワードだった。
「あれ? 他の皆は?」
 ルーベンスは尋ねた。返って来たのは勿論冷たい声で、
「いつも通り、皆出動中よ。帰ってきたのは貴方ぐらいね」
 上司の機嫌が悪い事を察してか、ルーベンスは眉を寄せながら申し訳無さそうに笑顔を浮かべた。
「だから何度も謝ってるじゃないか」
「そうね……そちらの方は?」
 エリスは少年の謝罪に対して大した興味を示さず、ライザを一瞥し、ルーベンスへと視線を戻した。少年神父は仲間を紹介しようとしたのだが、ライザが一歩前に出たかと思うと、軽く会釈して自己紹介を始めた。
「ワイはライザ。ゼブルの教会で神父やっとるモンや」
「成程。ゼブルで知り合ったのね」
 エリスは再びルーベンスに聞きなおす。少年神父が頷くのを待たず、美しい上司はしなやかな脚を組みなおす。
「それで、五人組の行方はどう?」
 その問いに、少年は少し表情を曇らせた。上司はそれに気付いてはいたのだが、その事については何も問い掛ける事無く、ルーベンスの答えを待った。それから何秒とも立たないうちに、少年は重々しく口を開いた。
「一人は倒した。エリエル・ドルセン……ゼブルで僕が止めを刺したよ」
「……そう」
 少年と同じように少し悲しそうな表情を浮かべたエリス。だがすぐに鋭い視線でルーベンスに三度尋ねる。
「それで貴方は何故戻ってきたの」
「ちょっと気になった事があったんだ」
「気になった事……?」
 エリスがオウム返しに訊く。
「うん。亡者の様子が変なんだよ。なんだか、ヒューマンの手が加えられたみたいで」
「改造……いえ、改良と言う事かしら」
 深く説明しなくても部下の表情からエリスには理解できたらしい。ルーベンスは何でも察してくれる上司を見て、心強く頷いた。
「みたいだね。動きも半端じゃなく早いし、武装までしてる。それにこれ、エリエルの隠れ家で見つけたんだ」
 背負っていたコンテナのシャッターを開け、ルーベンスはその中から鼠色のペンダントを取り出す。
 ミクトラン――亡者達のすまわる王国の紋章が刻まれたそれを見て、エリスは一瞬驚きにも似た表情を見せた。
「エリエルは亡者に魂を売った……そう言う事?」
「うん、多分。エリエル以外の人間にも共通する事だと思うよ」
 ルーベンスは自分なりの結論を告げた。エリスはしばらく考えると、机の上に置いていた書類を見て、何かを思い出したように――あるいは何かを企んだかのような――微笑みをを浮かべていた。
「丁度良かったわ。ルーベンス」
「へ? てぇかその顔は……嫌な予感が」
 エリスが嬉しそうな顔をする時は大概、とんでもない命令を言われるのが常日頃からの一般常識である。ルーベンスはがっかりしながらもその答えを促した。
「で、何?」
「今マルクトにきている歌姫については知っているわね」
「うん。マリアちゃんから聞いたけど」
 ルーベンスは横目でマリアを見た。エリスの前だからか、今も緊張してガチガチに固まっている。笑いたくなったが、この上司を前に緊張する気持ちも分かるので堪えた。少年は再び意識を元に戻した。
「それがどうかしたの?」
「ええ。上からの命令で彼女を保護してほしいのよ」
「エリスの命令じゃないの? ソレ?」
 エリスの命令もデタラメな事ばかりだが、エリスより上の組織からの命令は更に常識外れである。ルーベンスはこの世のどん底に立たされたように深いため息をつきながら、一応最後まで作戦内容を聞く。
「何でまた歌姫なんかを」
「それについては一切聞いてないわね。とにかく、保護しろとの命令よ」
「何でまた僕が……」
「ならマリアに頼むけど」
 エリスの優しい翠の瞳がマリアを見つめた。マリアは頬を赤くしながらしばらくその瞳から目を離すことが出来なかった。努めて微笑もうとしているのだが、緊張と憧れが彼女の中でごちゃまぜになって、どうやらマリア自身の思考を停止させているらしい。その様子を見たルーベンスは、少し考えてから諦めたように首を縦に振る。
「分かった、分かったよ。任務は歌姫の保護。それで良いんだね?」
「ええ。彼女には夜のステージが終わったら酒場の裏で待機しているように頼んでいるわ。そこで合流して教会までつれてきてちょうだい。こちらで預かった方が保護しやすいでしょう。それとマリア」
 ぼぅっとしていたところを不意に呼ばれて驚く見習いシスター。人が変わったかのようにびしっと背筋を伸ばすと、エリスの顔を見た。だが、やはりどこかその表情は凛々しさに欠けるものである。
「な、何ですか!」
「貴女にはルーベンスの手伝いをお願いするわ。よろしいかしら?」
「は、はいっ!」
「ありがとう」
 エリスは優しい笑みを浮かべるとマリアを見た。マリアと言うと完全にこの美しい上司に心を奪われたらしく、表情はどこか遠くを見つめているようだった。鈍感なルーベンスはそこで急に口を開いた。
「それでも何で歌姫なんだろうね」
「上からは本当に何も聞かされてないから分からないわね……」
 エリスはうんざりした様に言う。毎度毎度、教会上層部の人間は部下を物とでも思っているのだろうか。そんな事を思いながら、散らばった書類をまとめてため息をつくエリス。机の端っこにある書類の山の上に先程まとめた書類乗せると、続けた。
「ステージ終了は二十二時よ。それまでは自由行動にて待機」
「うん。じゃあ夜の十時までに酒場の裏に行けばいいんだね。分かった」
 ルーベンスがそう言うと、四人は美しい上司に一礼すると、ぞろぞろと部屋を出て行った。それを見送りながら、一人残ったエリスは机の上に上半身を預けた。
「ふう、楽じゃ無いわね。この仕事も」
「いかがいたしましょうか……」
「あら、帰ってたの?」
 机の上にだらけているエリスの背後で跪いているのは白い僧衣をまとった青年だった。その白い衣装に似合わぬ黒の短髪に、まるで光が灯っていない深茶の瞳。そしてその青年は頭をたれながらエリスの指令を待っていた。
「そうね、一応心配だから、もしもの時はお願いするわ」
「了解」
「あ、それと私も行くから護衛もよろしくね」
「了解」
 二回目の返答の後、白い僧衣の男はエリスの背後から消えうせていた。エリスは机に肘をつき、頬杖をついた。
「歌姫、か」

  ◇

 ――夜。
 結局、待ち合わせの時間までやる事がなかったルーベンスたちは歌姫の歌を聞きに行く事にした。太陽は完全に沈んだというのにまだ明るい喧騒を眺めながら、ルーベンスは石畳の上を歩いていた。背後には従士が従い、常に歩調をあわせて進んでいる。
 マルクトは一日中眠らない国でもある。昼は市場がにぎわい、夜は酒場や宿屋が旅人達によって賑わう。そういう国だった。
当然の如く国の外、ましてや結界から一歩出ると今度は亡者どもで賑わっている。こちらはと言えば、あまり賑わってほしくはないのだが。
 ようやく酒場に到着したかと思うと、既にライザとマリアが退屈そうに待っていた。
 四人全員揃うと、酒場の中へと入っていた。時刻は九時少し前、開演まであと五分といったところだ。一番奥にあるカウンター席に腰を下ろすと、ルーベンスは店内を見た。薄暗い店内に並べられた円形テーブルはどこも満席で、ステージには明るいスポットライトが常に当てられている。皆が落ち着いている中、マリアだけはどうも落ち着きが無く、きょろきょろと辺りを見回していた。
「こ、こう言うところって初めてです!」
「嬢ちゃん。あんま目立った行動しとったら、売りにだされてまうで」
「売り?」
「人買いの事や。それはもう怖いでぇ〜。何されるかわからんからな」
「……?」
 ライザの言葉にマリアはいまいち反応を示さなかった。若いな、と感じつつ、ライザは小さく息をついた。
「まあ、嬢ちゃんの歳じゃ分からんか」
「とりあえず、私達の側から離れては駄目よ」
 マリアの隣に座っていたヘクセンが言った。少女は漆黒の女神の美しい表情を見て安心したのか、いつものあどけない微笑みを浮かべた。
 すると、背後で酒を飲んでいた観客達が拍手を始めた。歌が始まるのだろうか?
「お、始まるみたいやな」
「みたいだね。どんな子なんだろ」
 ルーベンスは興味津々でステージに注目していた。すると舞台袖から出てきたのは司会者らしき一人の男だった。
 が、少年神父はその男の顔を見た瞬間、全身の毛が逆立つのを感じた。
 ――アスラフェル
「あいつは……」
「ど、どないしたんや?」
 突如立ち上がったルーベンスに驚くライザ。その表情は憎悪とも激怒ともにつかぬ不安定なものであった。舞台の上ではにこにこと微笑む司会者がなにやら喋っている。ルーベンスはその司会者の男をみながら懐の拳銃に手を忍ばせる。しかし、マリアのおどけた声が殺意の意識を反らせた。
「あれ、おかしいですねぇ? 司会者さんがいつもと変わってますよぉ?」
 ライザは怪訝そうな表情で幼いシスターの顔を見た。
「いつもと違う? 昨日までは違う奴が司会やったんか?」
「う、うん。そうだけど」
「アスラフェル!」
 机を叩きながら立ち上がったルーベンスの掌には、銀色の狼が握り締められている。鋭く閃いた牙は司会者の頬をかすめて背後の壁へと激突した。
 脳天を撃ち抜かれそうになった司会者の顔には焦りの色も何もない。ただ心底呆れたような溜め息を一つ打つだけだ。
「またそんなものを向けるのか、ルーベンス?」
「お前だけは……お前だけは許さない!」
 ライザはこの少年の怒りの姿を見て動揺した。あれだけあどけない表情のどこにこれほどの憎しみを隠し持っていたのだろうか。憎悪に彩られたその表情は見る者を圧倒する力を備えていた。
「気をつけて。ライザ、マリア」
 ヘクセンの忠告に二人は気付いた。先程までテーブルに座っていた観客達がゆらりと立ち上がっている事に。そしてその瞳は生気が宿っていないという事に。既に亡者のパーティー会場と化した酒場に、今現在生きている者は自分達と司会者しかいない。
 これは――罠だ。
 そう気付くと同時に、司会者、アスラフェルの唇が三日月形に裂けた。
「ルーベンス、大事な彼女を助けにいかなくていいのかな」
「……まさかっ!」
 ルーベンスはアスラフェルの言葉に何かを思い出したように走り出す。その背中をつかみ損ねたライザは軽く舌打ちしながら吐き捨てるように苛立ちを表す。
「待てっちゅうに! なんやねんあいつは!」
 だが愚痴っているのも束の間、全く一瞬の間にライザは酒瓶の置かれているカウンター奥の棚へとその体を沈められていた。瓶の破片が派手に散乱する。ライザを殴り飛ばしたのは大男、否、彼からは喰人鬼特有の腐臭しかしてこない。その怪力でライザを薙ぎ払ったのだ。
「あ、わ……」
 急な襲撃の為か、マリアはただ腰を抜かしたように座り込み動けなかった。ヘクセンはその様子を横目に腰を探る。こんな時に限ってアシュタルはルーベンスのコンテナの中だ。コンテナは内装と装備の確認の為に丁度エリスに預けている所だった。しかし、ヘクセンは気付いた。これだけの亡者達が動かなくなっている事を。そして、司会者の男、アスラフェルが自分の顔を見ている事を。
「アスラフェル」
「やあ、久しいねぇヘクセン。二年ぶりかな」
「ええ、マリエルを殺したあの日以来ね」
 銀色の長髪をたなびかせ、悪魔特有の真紅の瞳は笑った。服装はいつの間にかタキシードより僧衣へと変化していた。まだ少年でも通るその表情からはどこか狂気めいたものを感じずにはいられなかった。
 アスラフェル。亡者の部類の中でも上級にあたる種族、悪魔。
 そもそも亡者と言うのは屍の兵士、つまりはゾンビどもの事だけをさすのではない。悪魔、吸血鬼、妖魔など、人間外の"ヒトデナシ"集団の事も、また亡者と呼ぶのだ。
 ヘクセンが身構えるのを前にして、アスラフェルはおもむろに腕を振り上げた。
「では、ショータイムを始めよう。歌姫の回収にきたようだが、そうはいかないよ」
「何故それを!」
「美しき死神ヘクセン。仲間と共にここで逝くが良い」
 アスラフェルは指を一つ鳴らす。その瞬間、今までぴくりとも動かなかった亡者どもが叫びに似た呻き声をあげる。怒涛のように雪崩れこんでくる亡者を前に、ヘクセンは珍しく動揺していた。こちらは丸腰だ、どうしようにもこの数相手では分が悪い。
 だが、その動揺もすぐに安心にかわった。闇よりも深い声が酒場に木霊していたからだ。
[ミディアンズ二十パーセント活性化開始、戦闘モードにて起動――!]
「来たか」
 アスラフェルはその声を聞き、狂気に似た笑みを浮かべた。ヘクセンのすぐ背後にあった分厚い壁をぶちやぶり一回り大きくなったルーベンスが現れた。ライザはこの状態になった彼を見るのは二回目だが、あの子供のような笑顔は既にない。ただ悲しみをたたえた真紅の瞳が、大人びた表情をどこか哀愁漂うものにしているだけだ。
「アスラフェル!」
「ルーベンス!」
 二人が互いの名を呼び合う。凄まじい殺気を伴った表情でアスラフェルを睨みつけるルーベンス。そしてその殺気を受け流すかのように三日月形に口を裂き、男を見るアスラフェル。どうやら彼等は一対一でやりあうらしい。これは好機と、ヘクセンは腰を抜かしているマリアを抱きかかえた。
「は、うう……」
「マリア、しっかりして」
「なんだか気持ち悪いです」
 亡者の瘴気にあてられ、すっかり気が動転してしまっているらしい。マリアの目は回っていた。アスラフェルは高い能力を持った悪魔だ。彼の放つ瘴気に当てられれば、普通の人間ならばまず卒倒してしまうだろう。背後の殺気は更に強さを増すばかりである。ルーベンスがこれほど怒りを露にするのを見るのは二度目だ。ヘクセンは額に浮き出る冷や汗にも気付かず、主の姿を見ていた。
「歌姫を助けるのは間に合ったかな」
「ああ、さっき保護してきたよ」
「やはり僕自らが行くべきだったかな。グール如きじゃ心配だったんだけど、悪い予感が的中したな」
 しかし、言葉とは裏腹に全く気にしていないと言わんばかりに表情を変えないアスラフェル。ルーベンスは相変わらず険しい表情で続けた。
「外にでたところで連れて行かれる少女を保護してな。今、教会に連れていったばかりだ」
「またそれは危険な事をするものだ」
「何?」
 微笑みより全く表情を変えないアスラフェルに対し、ルーベンスは焦りの表情を見せた。
「ルーベンス。守るなら君一人で彼女を守りたまえ。今は分からないだろうが、あの娘の力はこちらの世界……亡者の世界や、そして汚い教会の世界。両方が必要としている力なのだから」
「今はそんな事はどうだって良い! キサマは殺してやる!」
 床を蹴り、ステージの上に立つアスラフェルに飛び掛るルーベンス。加速をつけ、一気に右足を振った。アスラフェルはその蹴りが直撃する直前にしゃがんで回避する。そして反撃もせずに後ろへ跳んだ。ゆっくりと着地したルーベンスは再びアスラフェルに飛びかかろうとするが背後から跳躍してきた無数の亡者どもに取り押さえられた。
「クッ、離せっ!」
「相変わらずの短気だ。お前の悪いところだぞ。あの女に能力まで封じられて……そんなお前が僕には哀れで仕方が無い。こちら側につかず、今も人間側についているなどとは……本当に哀れ極まりない」
 アスラフェルは掌でそっとセメントの壁を押した。すると一気に亀裂が走ったかと思うと、粉々に砕け散ったセメントの破片がアスラフェルの足元に散らばった。
「とりあえず今日のところは退散だ。また会える日を楽しみにしている。ルーベンス」
「ま、待て!」
 ルーベンスが叫んだ時、すでにアスラフェルは彼の目の前から消えていた。ただぽっかりと開いた大穴の外に見える星浮かぶ夜景が見えるだけだ。ルーベンスは今もなお亡者どもにしがみつかれていた。
「邪魔を……!」
 ルーベンスの掌がかっと光る。だが、魔獣ケロベロスが召喚されるより早く、改良された亡者どもは旧式回転拳銃より放たれた銀の銃弾により心臓を喰いちぎられていた。力を失った屍はルーベンスの体からずれ落ち、床にばたばたと倒れていった。
「……?」
「ぬ、ぬうううう!」
 崩れた棚の下から銃口だけが覗いていた。その棚を押しのけ、その下からホコリまみれのライザが姿を現す。
「クソッ! あいつ次会ったらただじゃおかんで!」
「ライザ、無事か?」
 黒衣が白く汚れている。その汚れを簡単に払うとあからさまに舌打ちしながらルーベンスを睨んだ。
「お前の敵は厄介な奴らばっかやな」
「しょうがないだろ」
「マリア、大丈夫?」
 ヘクセンは腕の中で震えるマリアを心配げに見た。見習いシスターは美しい女神の顔を見ると安堵する。一瞬にして瘴気が晴れたため、随分とその顔色もよくなってきている。
「は、はい、大丈夫です」
「そう、良かった」
 ヘクセンもまた安堵する。ルーベンスはみるみる内に体を縮ませ、鮮血の瞳も海の蒼へと戻っていた。崩壊した酒場の壁を見ながら暗い過去を思い出す。あおの男達が招いた、とても暗くて、辛くて、思い出したくも無かった過去を。
「とりあえず、歌姫の保護には成功したんだ。教会に戻ろうか」
 ルーベンスが提案する。ライザもへとへとでマリアは動けないと来た。このままではアスラフェルを追撃する訳にもいかない。と、なると教会に戻るのが一番であろう。一同は頷くと、まだ亡者の死体が転がっている酒場をあとにした。

  ◇

教会、セラフィムの特務スタッフ待機室のソファーに律儀に座っているシスター。このマルクトよりずっと北方に存在する聖歌の国『シェハキム』その国から弟探しの為にここ、聖王国まで来た歌姫、それが彼女だ。歌姫らしい煌びやかなドレスに背中の半分を埋めるオレンジがかった茶色の髪。うっすらと優しげに細める瞳は澄んだ紫色をしていた。
 彼女の名は『リプレス・ゼルセノン』と言った。十七歳にして、世の中での通り名は"癒しの歌姫"。その名の通り、彼女の歌は数多くの人間達を癒してきた。これは単に彼女の歌や声が良いから、と言う事だけではなかったらしい。
「楽にしてちょうだい。別に取り調べって訳じゃないんだから」
「え、あ……はい」
 エリスの優しい言葉にリプレスは無理に微笑んだ。確かにいきなり教会に押し込められて恐怖心や警戒心が先走るのは当然だろう。訳の分からない連中にいきなり連れ去られかけ、その次に故郷とは違う土地の教会に保護される。旅のサポートをしてくれた酒場の人達、彼等はもうこの世にはいないだろう。何となく、そんな気がする。
 リプレスは目の前にある木製の机の表面より視線をあげた。すると今度は目の前でにこにこと微笑む少年と目があった。
「……!」
「どうも」
 先程亡者に誘拐されかけた自分を助けてくれた少年だ。暗くてよく分からなかったせいもあったのか、助けられた時はどこかもっと大人びていた気がする。一瞬、驚きのあまりソファーからずれ落ちそうになるがリプレスは何とか堪えた。少年、ルーベンスは笑顔のまま尋ねる。
「もう大丈夫? 怪我とかしなかった?」
「はい」
「良かったぁ、銃弾が当たってたらどうしようかなって思ってたんだよ」
 目の前の神父は、今度は情けなく笑った。彼の銃弾が当たるなどとんでもない、リプレスには分かっていた。彼がたった一発の銃弾で自分を抱えていた亡者の心臓を撃ち抜いた事を。まぐれではとても出来ないであろう、難しい狙撃を彼はやって見せたのだ。そのくらいの腕前を判断するくらい、素人の自分にでも出来る。
 すると、エリスが木製の机の上に大量の資料を置く。
「歌姫リプレス……だっけ?」
「は、はい」
「何故貴女は誘拐されかけていたの? それは聞かせてもらえないのかしら?」
 遠慮しがちなエリスを見て、リプレスは頷いた。
「多分、私の能力に関係あるんじゃないでしょうか」
「能力?」
「はい、私が持って生まれた能力――」
 リプレスは自分の能力について語ってくれた。ある日、自分の歌が亡者との戦いで負傷した無数の人間を救った事がある、と。そしてその時初めて、自分には何か特別な力が備わっていると養母から教えられた事を。

 ――小さな頃から"歌"が好きだった彼女。友人の前でも良く歌を歌っていた。その美しい声と、その声が奏でる響きが人々の心を魅了していく。まだ幼い少女にはそれがとても嬉しく感じられたのだ。
 ――十四歳の時に聖歌隊に入隊。
 その頃、自分の能力に気付いていなかったリプレスはよく聖歌隊のリーダーとして歌っていたらしい。その度に、病院の病室でうなされる兵士の病気が治ったり、派遣から傷だらけで帰ってきた瀕死の兵士が立ち直ったりなど、とにかく不思議な事が起こっていた。
 彼女自身、能力に気付いたのは十五の時だった。亡者との戦いで多くの負傷者が運ばれてくる中、皆の痛みを歌で紛らわそうと歌った時に気付いたのだ。負傷した兵士たちの傷は見る見るうちに塞がっていき、出血も完全に止まってしまった。まさに彼女の歌は奇跡をもたらしたのだ。
 そしてその事件こそが、彼女が"癒しの歌姫"と呼ばれる由縁。だが、その日を境に彼女の人生は波乱の日々を迎えてしまうのだ。

 彼女が歌で大量の負傷者を癒したその翌日。彼女の弟、ユーグが突如行方不明になったのだ。教会に調査を依頼した結果、亡者に誘拐される弟の姿を見たとの証言が浮かび上がった。リプレスは亡者の手からユーグを救う為に現在こうやって旅をしているのだ。これは今から一年と十一ヶ月前の話である。

 そこまで聞いて、ルーベンスは険しい顔つきで上司を見た。
「およそ二年前だね。エリス」
「ええ。マリエル様がお亡くなりになられてからスグ。あながち関係が皆無とは言いがたいわね」
 鋼鉄の女神、エリスの眉間にはしわがよっている。ルーベンスは考え込むように腕を組んで頭を働かせた。
「何かありそうだね。そのユーグさんと五人の裏切り者……いや今はもう四人か」
 エリスは小さく頷いた。リプレスは遠慮しがちに鋼鉄の女神に訊ねた。
「あ、あの、私そろそろ行かなくちゃ」
「弟さん探し?」
 エリスが聞き返す。リプレスは頷いた。するとルーベンスがソファーから立ち上がる。
「エリス」
 少年神父が何を言いたいのかは大体分かっていた。エリスは頷くとルーベンスは床に置いてあったコンテナを背負う。
「じゃあ、行こうか」
「え……?」
 ――この少年神父は何を言っているのだろうか?
 リプレスは何故彼が自分を誘っているのかが分からなかった。するとエリスが彼のしようとしている事を言葉で、命令と言う形で表す事にした。
「ユーグと裏切り者の関連をみて調査。裏切り者の始末命令は続行。加え、ユーグの保護も命ずる」
「了解。よろしくね、リプレス」
 ルーベンスは命令、オーダーを承るとリプレスに向けて微笑んだ。
「でも、迷惑じゃないでしょうか?」
「ああ、気にしないで。コキ使って良いわよ」
「ひ、酷いっ!」
 エリスが微笑むとリプレスはやっと自然に微笑み返す事が出来た。ルーベンスは涙目になりながら部屋をでようとしている。自分もまたエリスに深々と一礼して部屋を出た。
「それにしても、私も命令違反する時代がくるとはねぇ……世も末だわ」
 一人残ったエリスはやれやれとため息をつきながら深々とソファーに身を沈めた。重大な命令違反――彼女は本来ならこの場に止めておかなくてはならなかったのだが、
「まあ、遊び心と言う事で」
この遊び心が正しい判断だったことは、言うまでも無い。

                   『A DIVA』 END