―― 『3』 ――


『NIGHT KING』
          ―― 夜の王 ――


 ――決戦当日、夕方。
 朝から教会の空気は緊迫感に満ちていた。礼拝に来た人々も、いつものように和やかな空気ではない教会に、少なからずとも不安を覚えていた。シスター達は皆、笑顔を作っているつもりなのだろうが、やはりその表情は少し険しい。
 ルーベンスはその様子を大聖堂の端の方で見ながら、コンテナに積んでいる荷物の最終チェックをしてい。銃弾は十分に補給した、体調も万全、銀狼の調子も上々。何一つ不足は無かった。隣で小型通信機の電源を落とした従士に、ルーベンスは問い掛けた。
「ヘクセン、エリスは何て?」
「エリスはミディアンズの使用許可を認めてくれたわ。神と大天使の加護の元に、アーメン、ですって」
「なら、思いっきり動けるね」
 鋼鉄の鬼上司の凍りついた表情を思い浮かべながら、ルーベンスは取り出した荷物をコンテナへ再び片付ける。とりあえず、こちらの切り札は使える事になった。ルーベンスは最後にシルバーウルフを腰のホルスターにねじ込み、立ち上がった。ヴァイド達は先に南へ行って待機している。ルーベンスの出番は最後らしい。最後の砦として、力と弾丸を温存しておくようにと言われた。雑魚はヴァイドとライザ達が片付けてくれるようだ。その辺りではあの二人は非常に頼りになる存在であろう。
 教会を出てスタンバイしようとするルーベンスに、背後から呼びかけたのはシスター・アグネスだった。
「ルーベンス様」
「アグネス、どうかしたの?」
「今日は……本当に大丈夫なのでしょうか?」
若い尼僧の不安そうな表情を見て、ルーベンスはなるべく不安を与えないように、それも最善の答えを返す。
「シスターがそんな様子じゃ、町のヒトも自然に不安がっちゃうじゃないか。大丈夫だよ。僕らは勝つ」
 その言葉に安心感を覚えたのか、アグネスは顔をあげて、先程より幾分か表情を緩めた。ルーベンスは不安など一点も無い笑みで付け加える。
「根拠はないけど、僕らは勝たなくちゃいけない。大丈夫、僕が皆を守ってみせる」
 そう告げて、アグネスの顔が安堵の色を見せた時、ルーベンスは大聖堂から町へと通じる扉を押した。
「いってくる。アグネスも頑張って」
 少年は天使のような微笑みを残すと、そのまま町へと出て行った。
 夕日はもう地平線へと沈みかけていた。赤く燃える大空が、帰路へと急ぐ鳥たちのシルエットを映し出す。朝から現在にかけて、何度か南の方で亡者の襲撃があったものの、大本命はまだ来ていない。恐らく亡者どもが活発になる夜、その時こそが奴等が攻撃を開始する時になるだろう。ルーベンスは完全に夜になるまで教会から出るなとは言われていたが最早、我慢の限界である。
 ふと背後で扉の閉まる音がする。そして静かな足音が近づいてきたかと思うと、ヘクセンがそっと少年の隣に並んだ。その手には何も握られては居ない。ルーベンスはその様子を見ると、不思議そうな様子で彼女に尋ねた。
「あれ、ヘクセン? 残るんじゃなかったの?」
「主に守るのが使い魔の使命よ。私にとっては怪我人の手当てより、貴方の命を守る方が大事な事だから」
 自分は命を落とす事はない。だが、従士の気持ちが嬉しくて、ルーベンスは微笑んだ。
「ありがとう」
「当然の事よ」
 照れ隠しだろうか。ヘクセンは別段、何でも無いのに民家を眺めた。
「そーいや武器はどうしたの?」
 手ぶらだったのを気にしてルーベンスは尋ねた。するとヘクセンは先程までの照れ隠しを嘘のように、表情を硬く、暗くして主を見た。
「今回は、あれを使うわ」
 その言葉にルーベンスは少し意外だと言う表情を浮かべる。だが、従士の決意を見て、それ以上は何も言わない事にした。
「そっか。相手は亡者だから容赦は要らないもんね」
「ええ。それに槍もボロボロになってて使えない状態なの」
「でも大丈夫なの? 確かあの武器は――」
 少年の言葉を遮るようにして、冷たい狩人の声はどこか悲しそうに告げる。
「良いのよ、"そうなったら"貴方が止めてくれれば良いわ」
「……分かってる」
 丁度ルーベンスが不本意だが頷いた、その時だった。教会方面からけたたましいサイレンの音が町中に響き渡る。亡者が出現したと言うサイン。道を歩く人々は慌てて自分の家へと駆け込んで行く。
 ルーベンスはその耳障りな音を聞きながらヘクセンに命じる。
「敵殲滅が目標。友軍はできるだけ守りながら、いいね?」
「……以上?」
 従士が相変わらず簡単な命令だと訊ね返すと、
「以上!」
 力強く、そしてどこか堂々と少年は頷いた。
 ヘクセンはこの少年は上司にするには相応しくないと感じていた。だがそれは反発の意ではなく、この感覚が居心地のいいものだからである。優しい主と言えばそう思えるが、上司として冷徹でない限り、相応しくないと言えば相応しくないのだ。ヘクセンはどこまでも彼について行くつもりだ。いつか交わした誓約が解除されれば話は別になってくるのだが、誓約が解除されない限りは、彼に従い、彼を守る。それが、自分に与えられた使命であり、自分の意思でもある。
 そんなヘクセンの思考を他所に、ルーベンスは走り出していた。南を目指して。従士もまたその背中を追いかける。
 ――そして、完全に夕日が落ちた頃、夜がその顔をついに覗かせた。
 南、氷河の森では既に戦闘が開始されていた。たくさんの銃声と、誰かの悲鳴が交差する。そして最前列ではヴァイドとライザが闘神の如き活躍を見せていた。
「サスガ大本命、数が違うなぁ!」
「オッサン! とっとと全員ぶ散らすで! そろそろルーベンスが来る!」
「応よ、てめぇら! 気合入れやがれ!」
 銃声や、激怒の声、悲鳴を跳ね除け、ヴァイドの低いよく通る声は、氷河の森を揺さぶった。最前列で戦う兵士達はそれに呼応して豪勢を取り戻した。そして、その大司教の声は、まだ森に入ったばかりのルーベンスにも届いていた。最後列の部隊と合流したルーベンス。兵士たちに挨拶もかねて、激励の言葉を贈る。
「汝らに神の加護を、エィメン」
「ルーベンス様にも神の加護を。エィメン」
 若い少年兵士の一人がルーベンスに祝福の言葉を返した。ルーベンスはその兵士に微笑むと、再び森の最前列へ向かって走り出す。前へ進むにつれて、負傷する兵士達の数が多くなっていた。それ程までに相手は多勢なのだ。ルーベンスは木に寄りかかっている少年兵士のもとに駆けつけると、戦況を問うた。
「大丈夫かい? 今ここはどうなってる?」
「ああ、ルーベンスさんですか……現在、南から大群の亡者と最前列で交戦中、我々負傷者は足手まといになる為、ここまで退却してきたんですが……」
 少年兵士は、十代後半とも見えるのに、しっかりはきはきとした口調で説明していた。横腹から鎧を通して血が滲みでており、顔は死相とまではいかないが、青ざめていた。どうやら体力が尽きたらしく、ここで仲間同士固まって座り込んでいたらしい。
「すみません、お役に立てなくて」
「今は自分の命のことを考えるんだ。ゆっくりでもいいから、少しずつ後退するんだ。いいね?」
「はい」
 やや不安そうな陰りを見せた少年兵の肩に、ルーベンスはぽんと手を置く。
「大丈夫。ここまで侵攻させたりしないさ。僕が守る」
 そう励まし、ルーベンスは立ち上がった。強く守りたいと願う意思を瞳に宿し、少年神父は再び歩き始めた。その背中に担がれているコンテナを呆然と見ながら、少年兵士は呟く。
「頑張って下さい、ルーベンスさん」
「奴ならやってくれるさ」
「化け物でも、何だっていい。守るものは一緒だ」
 側で負傷して座り込んでいた兵士達が、次々に彼の存在を認めていた。ルーベンスには届いていなかったが、従士、ヘクセンの耳には、しっかりその言葉は届いていた。
「よかったわね、ルーベンス」
「うん?」
 少年は走りながらも振り向いて、ヘクセンの発した言葉の意図を訊こうとするが、従士の目つきは既に死地に向かう覚悟を決めたそれであった。
 ルーベンスはそれ以上詮索する事をせず、走りながらコンテナの右側面についているボタンを押す。するとコンテナの側面部分の小さなシャッターが開き、一本の鉄棒がその存在を主張していた。ヘクセンはその暗闇の空間に腕を突っ込み、無造作に黒く塗られた鉄棒をとりだす。久しぶりの得物との再会を喜ぶ訳でもなく、むしろ嫌そうにヘクセンはそれを握りしめた。ルーベンスは彼女の表情を見て心配そうに尋ねる。
「ヘクセン、大丈夫?」
「ええ、まだ大丈夫よ。力も解放していないわ」
「そっか。でもヘクセンがそれ使うの、本当に久しぶりだよね」
 ルーベンスは現在も走り続けている。従士も遅れないようにと後を追う。雪道に足が慣れたのか、もう転んだりはしなかった。ただ力強く全力で走る。ただ真っ直ぐ前を見る。銃声を聞く。悲鳴を聞く。
怒声や呻き声を聞く。戦場は近い。ルーベンスは速度を上げた。
そして銃を、シルバーウルフを腰から抜き取る。
人間ではない彼の目には見えていた。
ずっと先に広がる戦場が。
 戦場が見えたところでようやく立ち止まり、銃を構える。背負ったコンテナの重みなどまるで感じさせない。その超視力で亡者に襲われかけている兵士を見つける。
 ――轟音。
 銀の銃口から撃ち出された猛獣の牙の如く祝福弾丸は、亡者の心臓を喰いちぎり、背から抜けていく。目の前で亡者が灰塵と化し、助かった兵士はきょとんとする。先程死を覚悟したばかりだ。だが、まだ自分に死は訪れていない。誰かが助けてくれたのか?
「大丈夫だったー?」
 向こうから元気に走ってきたのは天使の様な笑顔をたたえた少年だった。彼が助けてくれたのか? 随分と遠くから走ってきたようだが……少年神父は兵士の前に立つと、小さな手を差し伸べた。
「もう安心だよ。僕が来たからには誰一人死なせやしない」
 少し大きく出た主に、従士が咳払いを一つ入れながら冷めた声で忠告する。
「調子に乗らないように」
「厳しいなぁ、ヘクセンは」
 そう言って、ルーベンスの指がぴくりと反応した。背後から飛び掛ってきた亡者を肩越しに銃を構え、銃爪を引き頭蓋を粉砕――撃破。空中で顔面を失った屍は真の安らぎを得ながら、灰と還った。
「やっぱり油断できないね」
「……はぁ」
 気の抜けた安堵のような、また感激のような、そんな声にもならない息を発した兵士は、ルーベンスの手を借りると、やっと立ち上がった。自分より小さな少年に助けられるとは夢にも思っていなかっただろう。ルーベンスの射撃力とその優しい微笑みに、完全に呆気に取られていた。すると今度は主ではなく、ヘクセンが反応する。兵士を助けている間に、大量の亡者が自分達を取り囲んでいる事に気付いたからだ。従士は主と兵士を守るように果敢に鉄棒をひきつけた。
「ライザ達と合流して。亡者は私が相手しておくわ」
「うん、よろしくお願いするね。ヘクセン」
 ヘクセンは激励に小さく頷くと、黒い鉄棒を一振りする。それまでは短剣ほどの長さだった鉄棒が一気に彼女の背を越すほどの長さまでに伸びる。
「アシュタル、解放」
 そう呟くと、漆黒の狩人は眼前に広がる亡者の群れへ突撃を開始した。長く伸びた黒の鉄棒の両端にどす黒く、とろりとした光を宿した刃が空間を裂いて出現する。
 ――大鎌、アシュタル。
 アンダリューサイトと言う特殊石を組み込んだ鉄棒から伸びた魂の刃は、亡者の首元を正確に狙いすまし、すれ違い様に全て跳ね飛ばした。
 ヘクセンがこの強大な兵器を今まで使わなかったのには訳があった。一つはあまりにも強力な殺傷力を用いている為、人間相手や雑魚相手には使用する必要がなかったと言う事。そして、もう一つの大きな理由は、この鎌がもたらすある代償の為だった。
「さて、君は早く逃げてくれ。ここは危ないよ」
「え?」
 助けられた兵士はきょとんとする。ルーベンスの顔からは、先程までの天使のような笑顔は消え、既に深刻そのものとなっているからだ。少年はヘクセンから目を離さず、少し焦燥を含んだ声で兵士に警告を与える。
「早く逃げて!」
「りょ、了解!」
少年の声に、あまりにも危険なことが近付いているのだと察知し、兵士はすぐさまその場から離脱し始めた。幸運な事に、先程少年が来た方向からは亡者が一匹たりとも存在していない。途中、走りながら兵士は何度か振り返ったが、もうその場所にルーベンスの姿は無い。亡者達が漆黒の狩人を取り囲みながら、呻き声がより一層悲痛なものへと変わっていた。最早、漆黒の狩人ではなく、漆黒の死神と変貌したヘクセンは次々と黒き刃で亡者どもの首を狩っていく。
ルーベンスは彼女のすぐ後ろにつき、ヘクセンが斬り開く道を走り抜ける。いつもの事だが、ヘクセンがこの武器を使うと相手を"殺し損ねる"という事は絶対にない。よって亡者も全くルーベンスの方へは飛び掛ってこないのだ。
 しかし、亡者が確実に死滅し、襲ってこなくとも、それ以上に恐れなければいけないものがすぐ側を走っているのだ。決して安全と言う訳ではない。
 死神と化したヘクセンは目に映る敵を次々と瞬殺していく。ルーベンスは突出する彼女が背後から襲われないようにと、シルバーウルフを常に構えていた。が、どうやらその必要も無いらしい。鋭い眼光が背後の亡者を捕らえた時、屍兵士は鋭い裏拳で腐った顔面を原型を止めないまでにゆがめていた。ルーベンスはと言うと、危うくその裏拳の餌食になりかけたところで何とか体を捻り、鼻先に拳が掠った余韻を感じながら、冷や汗を流していた。
「潰れなさい。二度と私の前に姿を現さないで頂戴」
 無慈悲で、しかも冷たく輝く漆黒の瞳が屍の兵士を見下ろす。そして次の瞬間、亡者の頭蓋に勢い良く踵を押し付け、そのまま凄まじい力で踏み潰す。憎しみをこめでじりじりと踏みにじり、既に絶命したのだろう、灰塵と化した今も憎らしそうに殺意の晴れぬ瞳で見下ろしている。
 そう、これこそが『アシュタル』の問題とされる代償。
 ――狂人化。命の価値というものを忘却させ、ただ戦う為だけに使用者を操るこの大鎌の力であった。使用者がこの力を跳ね返せない限り、殺戮を好み、何よりも相手に無慈悲になる。まさに死神と変貌してしまう訳である。つまり、殺戮を目的とする亡者が相手のときには絶大的な力を発揮し、逮捕を目的とする人間相手の時には、その逮捕対象の人間を殺してしまう為、使えない力なのである。
 ヘクセンは完全に闇に支配されかけているらしい。ルーベンスはその凄惨な横顔を見て、素早く辺りを見回す。亡者を全滅させた事を確認すると、ヘクセンの腕からアシュタルを強引にもぎ取った。するとヘクセンは全身の力を失ったようにがくりと膝をついた。先程までの殺戮を楽しむ表情はそこにはなく、ただ何かを恐怖するように青ざめていた。
「はっ、はっ……っ! 私っ、今日は何人殺したの……?」
「大丈夫、相手は亡者だ。人間は殺してないよ」
 主のその言葉にヘクセンは力無く安堵した。
「良かった……」
 本当に安心したと言う微笑みを残し、ヘクセンは意識を失っていた。それにしても、毎度毎度思わされる事ではあるが、彼女の力は凄まじい。ここら一帯にいる亡者どもをこの短時間で全滅させてしまったのだ。大本命である軍勢の半分を減らしたといっても過言ではない。ヘクセンの戦い振りに恐れたのだろうか、木の陰に隠れていた兵士二、三人を見つけたルーベンスは彼らを呼ぶ。
「すまない! ヘクセンを教会まで運んでやってくれ。僕はライザ達と合流して掃討戦に入る」
 最初は怯えていた様子だったが、ヘクセンに害はないと言う事を説明すると、兵士達は少年の頼みを快く引き受けてくれた。
「了解しました! お気をつけて、ルーベンス殿」
「うん。君達も気をつけて。まだ完全にいなくなったとは言い切れないからね」
 ルーベンスはヘクセンの寝顔を見て、そっと頬を撫でて微笑みながら再び走り始めた。
 背中が軽い。コンテナは先程ヘクセンと一緒に預けてきた。
 走りながら聴覚を研ぎ澄ませ、雪を踏む亡者どもの足音を聞く。
 ――右。
 そう確信したルーベンスは、即座に銀の狼を構える。無造作に振り上げられた腕の先に光る銀色は、右方向に見えた亡者を的確にポイントしていた。そして轟音。放たれた銃弾は亡者の顔面を綺麗に吹き飛ばし、灰を舞い散らせた。ルーベンスは銃を構えたままの状態で硬直していた。走るのをやめ、神経を集中させ、森の茂みの中に亡者が居るかを的確に見極めようとしていた。
 数は三。前に一匹、そして後方に二匹。そいつ等は今もなお、生きた生命体の存在を求め、接近中である。ルーベンスは考えていた。後方の二匹は無視して突っ切るか、全滅させるか。
早く合流するならば前者を選ぶ。が、残した二匹が町の方へ向かうのもまた問題だ。
 ルーベンスが全滅させると言う結論に至るまで、大した時間はかからなかった。ルーベンスは腰を後ろに捻りながら腕を振り上げる。そして振り向き様に五連射。その内の四発が一匹の亡者の四肢を吹き飛ばし、残りの一発はもう一匹の亡者の心臓を偶然にも貫いた。四肢を撃ち抜かれ動きの取れない亡者。首だけを動かし、どこか悲痛な呻き声をあげている。心臓か頭を吹き飛ばさない限り彼等は死ねない。死してなお、地獄のような苦しみを彼らは味わっているのだ。
 ルーベンスは申し訳無さそうに胸の前で十字をきった。そして銀狼を振り下ろす。
「安らかに眠れ、エィメン」
 今度はよく狙って一発。悶え苦しむ亡者の心臓に打ち込まれた銃弾で、彼は灰へと還る。それを看取ったルーベンスの背後から、跳躍してきた亡者が一匹。先程前方に確認した奴だ。
「……!」
 ルーベンスが驚いたのは別に不意打ちの事ではない。その亡者は剣を持っていた。つまり武装していると言う事だ。少年神父がこんな亡者を見たのは初めてだった。武装した亡者。そんなものは見た事が無い。第一、知性の無い彼等に武器を使うと言う概念はなかったハズだ。
 ならば一体、この背後から襲い掛かってきた亡者は何なのだ。そんな余計な事をルーベンスが考えていると、亡者は持っていた剣を振り下ろし、隙だらけの少年神父の背中を斜めに切り裂いた。痛みの奔流だけがルーベンスを襲い、苦痛の声となって漏れた。
「ぐあっ……! この……っ!」
 背中から大量に噴出す赤い命の液体にも構わず、ルーベンスは腕だけ後ろに回した。そしておおよそ狙いもつけずに乱射。瞬時に放たれた計六発の銃弾が亡者の身体に喰い込むのをルーベンスは幻視した。しかし、銃弾は亡者の体を喰いちぎるどころか掠りもせず、地面に降り積もった雪の静けさを、ただ強引に乱しただけであった。
 ――早い。
 即座にバックステップしていた初めて遭遇する亡者に、ルーベンスは関心の息を漏らす。だが、その瞳には不敵な光が舞い戻っていた。
「へぇ、こんな素早い亡者が居たなんてね。ついでに武装してるなんて……」
『ウ…グオオオ…』
 亡者が手に握り締めた剣をひきつけた。先手必勝をみすみす打たれるルーベンスではない。負けじと銀狼をひきつけ、勝利を確証したかのような笑みを浮かべた。
「どれだけ武装しようが、早かろうが、僕は負けられない」
 ――突進。
 荒々しく雪を蹴り、一気に亡者との距離を詰めるルーベンス。態勢を低くし、雪を蹴り除きながらスライディングで亡者の懐に潜り込む事に成功する。亡者の大きく開かれた二本の足の間を上手い具合にすり抜けながら、銃を真上に構え、弾倉に残っていた二発の銃弾を心臓と顔面にぶち込み、確実に浄化した。すれ違い様に二箇所の急所を一気に撃ち抜かれた亡者はしばしゆらゆらと活動していたが、やがてその場で息絶えたようだ。がくりと崩れ去る、がしかし灰にはならない。
 ルーベンスは背後で倒れた亡者を起き上がりながら観察し、即座に弾倉を再装填。警戒しながら亡者に銃の照準を合わせたままで接近する。
 だが、既に武装亡者は絶命していた。
「おかしいよね、これ。何で灰にならないんだろ」
 亡者の胸のあたりから滲み出ている、どす黒く、濁った血が雪の純白を汚した。普通の亡者なら二つの急所、つまり心臓と頭を撃ち抜かれれば浄化され、灰塵に帰するのだが、今しがた倒したこの化け物は、武装していると言えど喰人鬼であるはずなのに、灰にはならず、そのまま原型をこうして残している。普通ならここで考察を巡らせるのもいいのだろうが、今は時間が無い。武装した亡者を発見し、撃破したという記憶だけを脳に詰め込み、ルーベンスは再び走り出した。
 最前で戦う神父達の声を聞きつけ、少年は更にスピードを上げた。

  ◇

 最前列の戦況は決して良いものではなかった。辺り一面の木に負傷した神父がもたれかかり、純白をその赤で染めながら、柔らかい地面の上で絶命している者もいた。腕は当に喰われたというのに、その体の一部を捜して必死に歩き回る兵士もいる。パニック症状を引き起こし、手当たり次第に人間も亡者も関係なく襲い始めた者は、仲間の手によって射殺された。
 地獄と化した戦場が、確かにそこに存在していた。
 その地獄を更に深いものにしたのは、死者の目覚めであった。邪悪な魔力を浴び、そこへ再び仮初の命が吹き込まれていく。負傷者達を襲った悲鳴は、人間のものではなかったのだ。鮮血を滴らせながら起き上がった同僚を前に、神父は愕然と体を振るわせる。まさに今目の前で、先程死んだはずの友が蘇ったのだ。だが、その目に既にヒトとしての光は灯っていない。ただ目の前に映る生命体を喰らうだけの存在、喰人鬼へと死者達は変貌していた。
 ゾンビとして蘇った仲間の牙に、次々と負傷して動けない者が餌食となっていく。そしてその今同僚に喰われて息絶えた神父達も、数分後には仲間の血肉を求めて立ち上がり、そして容赦なくこちらに襲い掛かってくるのであろう。
 ――ラチがあかない。そう判断したヴァイドは、憎らしく目の前に居た亡者の心臓を撃ち抜いて叫ぶ。
「てめぇら! 一旦下がるぞ!」
「何や! 逃げるんかオッサン! だらしないで!」
「うるせぇ! 死人が増えて敵が増える一方なんだ! 撤退しねぇ訳にはいかねぇだろうが!」
 部下の抗議にヴァイドが多少なりの焦燥を浮かばせながら説得する。だが、噛み付いたライザは頑として大司教の指示を聞こうとはしなかった。
「ここまで来てふざけんなっ! ワイは残るで」
「馬鹿言ってんじゃねぇ! てめえも撤退するんだよ!」
「五月蝿い! 退くんやったらお前だけで退け! ワイはついていかん!」
 ヴァイドの怒声も虚しく、それを振り払ったライザは旧式回転拳銃を振り上げ、銃爪を引き絞る。一気に六連射された銃弾は亡者六匹の心臓を均等に撃ち抜き、浄化した。そして狂気を宿らせた瞳で再充填。向かってくる亡者どもに再び照準をあわせた。ライザは視界の端に映っている上司を一瞥し、背中越しに怒鳴った。
「さっさと逃げんかい!」
「……てめぇみてぇな下っ端神父が現場に残るってんだ。俺も残らなきゃ、顔がたたねぇだろうが!」
 ヴァイドはそう言いながら巨大拳銃を豪快に振り上げる。その声には上司を部下が守るのではなく、父親が家族を守ると言う色が少なくとも含まれていた。
 そして重々しい反動を感じさせない発砲。撃ち出された死神達は屍達の体を次々と喰いちぎり、更には貫通し、その後ろで耳障りな呻き声を上げていた化け物達も撃破した。蒼白い硝煙の立ち昇る銃口を見つめながら、ライザは唖然とした。だが、もう一度逃げろと言う訳でもなく、ましてや逃げない理由を再確認するわけでもなく、黒の神父はまるで最強の味方を得たかのように、不敵な笑みを浮かべた。
「ヘっ! 心強いやろうなぁ!」
「勿論だ。俺様を誰だと思っていやがる」
「んじゃ、いこか。大司教『様』」
「気持ちわりぃ、オッサンで良いんだよ、オッサンで!」
 二人がお互いの顔を見合わせ、腹をくくり、亡者の群れへ突撃しようとしたその時、突如として、どこからとも無く飛来した衝撃に亡者達が襲われ、頭や心臓を次々と撃ち抜かれては灰塵と化していく。目の前で行われている一方的な殺戮に、ライザとヴァイドはほぼ同時に右を見た。
 そこにいたのは、既に銃弾を全て撃ち尽くした銃口から硝煙を立ち昇らせ、銀光放つ銃を引きつけた少年神父だった。こちらの大本命、特務機関『セラフィム』派遣員、ルーベンスは、間に合ってよかったと言う安堵の笑みを浮かべると、草の茂みから、足にまとわりついた雪を払いながら出てきた。ヴァイドはその姿を確認し、豪快に笑うとルーベンスをびっと鋭く指差す。
「てめぇ! おせぇよ!」
「ゴメンゴメン。ちょっと手間取っちゃって」
「ホンマ、もうちょっとでワイら死にに行くとこやったんやで」
 罰悪そうに出てきた少年をみて、ライザが呆れたように言う。先程まで自分から死地に飛び込もうとしていた男の言う台詞ではない。ルーベンスはそれについては何も答えず、苦笑しながら再び銃を腰にさす。
「さて、さがっててね。ここから先、一歩も亡者は通さないよ」
 その一言で彼が何をしようとしているのかを察知したライザは、説得するように声を荒げながらルーベンスを止めようとする。
「アホ! 今切り札使ってどないすんねん!」
「今使わなきゃ、僕は後悔するよ」
 返って来た返事にライザが押し黙る。ルーベンスがそれを見て微笑むと、その柔らかな唇は、少年の放つ声ではない、重々しい声で呪詛を呟き始めた。
ミディアンズ二十パーセント活性化開始、戦闘モードにて起動――
 少年の身体は以前、ランスを失った時に力を解放したように光り輝く。その眩いばかりの光が収まると、彼は見違える程成長しているのだ。長く伸びた金色の髪に、美しいまでに鮮血の色に染まった真紅の瞳は、悲しみをたたえてどこか遠くを見据えている。
「行き場を失った哀れな屍達よ。聖母セラフィムの加護の元、灰塵と帰せ。AMEN」
 そのどこか冷たい唇が、祝福と浄化の呪文を両方とも紡ぎだすと、亡者達に激しい爆光が降り注いだ。轟音と共に閃光したソレは鬼のように暴れまわり、亡者の身体を爆発で粉々に吹き飛ばして行く。四散する肉体、雪の上に落ちた指先は、まだもぞもぞと自分が死んだことを自覚していないかのように気味悪く動き回っている。爆風で灰塵と帰した亡者達が風に舞う。一瞬で灰色一色に染まった空間は、ただ時折見せる赤の閃光で彩られるだけであった。
 彼、ルーベンスが腕を横に振るっただけで、この状況だ。ライザは彼の強さを認める上で、彼の危険性も認識していた。この力がもし人間に振るわれればひとたまりもないだろう。
 ルーベンスがふと振り上げた指先を鳴らすと、爆光は嘘のようにぴたりと止んだ。その時、すでに降り積もった雪は爆発で蒸発し、雪の代わりに灰色の砂が地面を覆っていた。今までこんな一方的に、それもこのような早さで亡者を処理する者を見たことは無い。ライザとヴァイドは口をぽかんとあけて、ただその様子を見入っているだけであった。
「なんつー奴や……」
「まだいたのか。早く逃げろといったはずだ」
「そうはいかねぇな。エリエルって奴にゃぁ、俺も一発銃弾を叩きこまねぇと気が済まねぇ」
 化け物以上の化け物を前に、怯む事無く巨大拳銃をちらつかせ、ヴァイドが言った。だが、ルーベンスの耳にその言葉は届いていない。亡者の居なくなったこの森でエリエルの気配を探る。しばらく静かにその動向を見守るライザ達であったが、ルーベンスが不可解だと言う表情を見せて、彼の発言を待った。
 一方、ルーベンスは予想外の出来事に戸惑っていた。これだけの亡者が居ると言う事は、少なからず指揮をとる者が存在するはずだ。だが、その指揮者だと思っていたエリエルの気配がない。
 ――そう、エリエルはここには存在していなかったのだ。
「おかしい」
「何がや?」
 ようやく言葉を発した男に、ライザが鋭く疑問を投げかける。しかしルーベンスは腕を組み、まるで独り言のように呟くだけだった。
「エリエルの邪気が見つからない。一体どこに……」
 ルーベンスが思考をめぐらせていたその時だった。ヴァイドのポケットに突っ込まれていた通信機が鳴り出したのは。慌ててその携帯用の通信機の電源を入れるヴァイド。すると彼の表情は珍しく真っ青になった。
「何だと! 今度は北からだとっ!」
「どうかしたんか?」
 ルーベンスはライザより先にその言葉の意図を読取っていた。身を素早く翻したかと思うと、すぐに北に向かって走り始めた。方角の分からないライザだが、彼が先程の通信を聞いて何かに気付いたのだと思い、その後を急いで追う。最後に通信機の電源を慌てながら切ったヴァイドが走り出す。
 ライザは走りながら情報を整理し、自慢である頭の回転力ですぐに答えを導き出していた。そう、エリエルが北から攻めてきたのだ。
 ルーベンスは歯痒そうに予測が外れた事を後悔していた。
「誤算だったな! やはり二年前とは同じじゃ無いと言う事か」
「自分を責るのはやめときな! 誰もが予想出来なかった事だ!」
「そや。遅れた分、ワイらが取り戻せばエエだけやろ」
 ルーベンスは二人の励ましに強く頷き、雪を蹴って高く舞い上がった。急ぐ時は空中を移動した方が早い。木の上を次々と移動していく彼を見上げながら、ライザは唖然とした。
「で、デタラメな跳躍力や」
 北へと急ぐ三人。だが、既にその時ゼブルには大量の亡者が入り込もうとしていた。教会で待機していた数十名の兵士が食い止めようとしていたが、数にものを言わせられ、そこはもう限界であった。
完全に救護室と化した大聖堂では怪我人の悲痛な叫びが木霊する。包帯を巻いているが、出血量がおおく、血がにじみ出ていて苦しもがきむ神父達。体の一部を失った兵士達も大量に運び込まれていた。運び込まれた兵士の無残な姿を見て、失神したシスターまでいる程である。その地獄のような風景の中、可憐に咲く一輪の華、シスターアグネスは、必死で怪我人の手当てをしていた。そこへほとんど意識が朦朧となっているヘクセンが、二人の兵士に肩を貸してもらいながら担ぎ込まれてきた。すぐに彼女の姿に気付き、走り寄るアグネス。兵士に彼女を横にするように頼むと、患者の様子を見る。
 彼女ほどの法力の持ち主であれば、患者がどれだけ疲弊しているかは一目瞭然であった。
「これはまた……膨大な魔力を使ったようですね」
「ええ、迷惑かけるわ……」
 ヘクセンが擦れた声で申し訳無さそうに言うと、アグネスは女神の微笑みで患者を見つめた。
「いえ。怪我人の手当てがわたくしの仕事ですから」
 体力もなく、ぐったりしているヘクセンには笑顔を返す気力はないが、小声でありがとうと言う事は出来た。アグネスが持ち前の法術でヘクセンを治癒しようと集中したその時、大慌てで教会に入ってきた一人の兵士が叫んだ。その報告は地獄を天国に変えるわけではなく、更に深い黄泉へと陥れるものだった。
「北はもう突破されそうです!」
「困りましたね」
 アグネスは掌をヘクセンの額に当てた。
 ――治癒法術、ヒーリング。
 1STクラスのシスターならば誰もが修得している法術だ。生物の内面的精神力に直接干渉し、それを法力によって癒す事で肉体的疲労までをも回復させてしまう神がかりな術である。どう言う現象なのかは未だ明確には解明はされていないが、清らかな心を持ち、神に使えて来た聖女達だけが操れる能力である。
 ヘクセンは段々と軽くなっていく身体をゆっくりと起こした。アグネスの掌は額に当たったままである。まるで母親が子供に諭すかのような優しい声でシスターはヘクセンを落ち着けた。
「もう少し、待ってください」
「そうはいかないわ。突破されかけてるんでしょう?」
「ええ、でも万全の態勢で向かわないと負けてしまいますよ。随分と体も心も酷使されているようですし、今しばらくお休みになって」
「この程度、どうって事ないわ。もう、良いでしょう?」
 ヘクセンがじれったそうにそう言うと、少しの間をおいて、アグネスは額から掌を離した。
「はい、ひとまずは安心でしょう」
「じゃあ、行ってくるわ」
「お気をつけて。無理だと思えばすぐにこちらまで退却して下さい」
「ええ。ありがとう」
 ヘクセンは、幾ばくか軽くなった体に命じて立ち上がると、まだ心配そうに自分を見つめるアグネスを後に、教会を走って出て行った。シスターは既にそこから出て行ってしまった背中を見つめ、とても丁寧に胸の前で十字をきり、祝福の言葉を紡ぐ。
「神のご加護を、アーメン」

 ヘクセンは街の大通りを北へ向かって走りながら、黒の鉄棒を軽く一振りする。自分の身長より長くなった鉄棒の感触を確かめながら、しっかりと前を向き、戦場へと赴く。町の中まで銃声や悲鳴が届いている。勿論、恐怖心を更に引き立てる亡者の呻き声もそれには含まれていた。
 町はしんと静まりかえっていた。聞こえるのは戦場から風に乗って送られてくる雑音だけ。民家の中で肩を寄せ合って怯えている住民達の姿が手に取るようにわかり、ヘクセンは更に急いだ。
 こちらの世界に召喚された五年前から自分は何も変わっていない。走るスピードも、相変わらず人々が亡者に怯える事も食い止められていない。ヘクセンだけではない。誰もが思っている事。自分が無力だと言う事。
 自分達より更に無力な人々さえ守れないのか。人々に恐怖を与えない方法はないのか。今も最前線で戦う兵士達は、きっと今の自分と同じ事を考えているに違いない。
 だが、たった一人だけ。自分は無力じゃないと諦めない男がいる事をヘクセンは知っていた。彼はたった今、走っている彼女の真上を黒い影として疾駆した。背中に黒き翼を携えた堕天使、いや、亡者どもに死を運ぶ悪魔と呼ぶ方が相応しい。
 何度打ちひしがれても立ち上がる男と言うのは彼の事だ。自分をこちらの世界に召喚し、今までずっと一緒に亡者と戦ってきた彼だ。月光を浴びて輝く空を舞う影を、その漆黒の瞳で追いかけるヘクセン。ミディアンズを解放したルーベンスの姿はいつもとは断然違い、凛々しい。誰もを魅了するその大人っぽい姿は、仮の姿の時に比べると比にならない程に堂々としているものであった。
 ルーベンスは、北の防衛門へと到達していた。
 積み上げられたレンガの防壁は所々で崩落し、たくさんの兵士達がそこら辺に転がって動かない。壁に引っ掛かったまま揺られる死体が、いまだ鮮血を滴らせているのを見て、ルーベンスはその表情を憎悪の一色へと染まらせた。
 着地した男の真紅の瞳に移るったのは、防壁の代わりに積み上げられた死体の山。そして、山の頂上で、まるで殺戮を楽しむかのような凄惨な笑みを浮かべている女性がいた。
 ルーベンスは、追いかけていた獲物をそこで発見した。
「エリエル!」
「キャハッ! 遅かったネェ。るーべんすぅ」
 自分が踏みつけているものがまるで何なのかも理解できていないようなその態度に、ルーベンスの憎悪は更に高まった。
「キサマ、一体何人殺せば気が済むんだ!」
「何人? 何人殺しても気が済むワケないじゃん! 殺すのは楽しいよ? 止めるワケにはいかないわよねぇ!」
「キサマと言う奴は!」
「とにかく、アタシは殺しが楽しめれば良いの。予告通り、地図上から消えてもらうよ?ゼブル」
 女の凄惨な笑みとは逆に、憎悪から憤怒の色をたぎらせた真紅の瞳は、確実にエリエルを視線で射殺しようとしていた。
「ならば俺がその殺戮とやらの邪魔をしてやる!」
「キャハッ! 以前の弱々しい、内気なアタシだと思わない事ね! 油断は禁物、だよ!」
 そう言い放つと、死体の山の頂上から忽然とエリエルの姿が消えた。ルーベンスが背後に出現した彼女の存在に気付いた頃には、凄まじい衝撃波で背中を殴られ、遥か前方に吹き飛ばされていた。しかし、その人間離れした反射神経で、地面に激突するかという擦れ擦れの所で右手を伸ばし、確かに土に手をつける。接触している時間が長いほど掌の皮膚へのダメージは大きい。瞬時に腕に力を込め、その凄まじい腕力で地面を叩きながら前転する。低空で一回転してから着地。反動からか、しばらく土煙を巻き上げながら着地した態勢のまま地面を滑った。即座に背後へ回転。悪魔に魂を売り渡した女の姿をしっかりと確認すると、右掌を彼女に向けて左手で右腕をしっかりと固定する。
「ルーベンス・バロールの名において召喚する」
「ご自慢の魔獣術とやら? 一度見てみたかったのよネ!」
 エリエルの唇が愉快そうに三日月形に裂けた。ルーベンスは精神を集中させ、異世界の門を開くイメージを右手に集中させる。来い、来いと呼びかけ、地獄の番犬はその呼びかけに答えたかの如く、想像の門を越えて物理世界へと干渉する。歪んだ空間がルーベンスの右手から一気に広がった。
「ケルベロス!」
 疾風――いや、闇の斬撃。素早く、そして鋭く走るその五本の衝撃はエリエルの身体をずたずたに切り裂いた。それこそ回避しようとしていたのだが、あまりもの速さに反応速度がついていかず、その左肩はばくりと裂けて、真っ赤な鮮血が噴水の如く噴出していた。激痛に一瞬意識が遠のきかけるエリエル。しかしそれも一瞬の事。数秒経てば、痛みを全く感じさせないような不敵な笑みを浮かべたかと思うと、倒れる事無く踏みとどまった。だが、赤い奔流は止まる事を知らず、地面に敷き詰められた白い絨毯を真紅に染めていく。
「キャハ! 今のはちょっと痛かったナ!」
「ケロベロスを喰らって立っているのか?」
 ルーベンスは予想外の出来事に微かに顔をしかめた。従えてきた魔獣の中でも攻撃力では他の追随を許さぬ魔獣、"ケロベロス"の斬撃を喰らって立っているのだ。回避された分の攻撃力を差し引いても、通常の亡者ならば一撃で撃破できるほどの威力を、エリエル自身の傷が物語っている。
 だが、不思議な事に焦燥の色は少しするとその顔を通り過ぎていた。代わりに訪れたのは、哀れみとも言える悲しげな瞳であった。
「本当に……本当に変わってしまったな。エリエル」
「いつまでも昔のままじゃいられないワ。どこかで変わる必要があったのよ」
 エリエルの身体に深々と刻まれた斬撃は、もう完全に塞がっていた。先程まで流れ出ていた鮮血は嘘のように止まり、ただ衣服を無残に赤く染め上げているだけである。それでもその汚れを気にするでもなく、むしろ血の色に恍惚の色こそ見せたその凄惨な笑顔に、ルーベンスは昔の彼女と今の彼女を照らし合わせた。
 だが、共通点などどこにもない。
 ルーベンスは構えを解き、ただ寂しそうにエリエルを見据えた。
「変わる必要なんてなかった。君は昔のままでよかった」
 その言葉を聞いて頭に血が上ったのか、エリエルは悲鳴になりかけた声で息を荒げながら反論する。
「黙って!以前の内気なアタシが教会で生き残れると思うワケ? 無理でしょ? あそこは力こそが全てだったのよ! 昔のアタシみたいな無力なシスターは必要すらされなかった場所なのよ! だから全部壊してやった! 殺してやった!本当は必要としていないくせに 微笑みながらアタシを励ますアイツも殺してやった!」
「……エリエル」
 ルーベンスは気付いていた。"本当の彼女"はあんな事をしたくなかったのだと。力のみを求めた老人達とは違い、たった一人、笑顔で接してくれたマリエルを殺したくはなかったのだと。その証拠は、彼女の頬を無意識に伝う大粒の涙が教えてくれた。
 その涙が雪を打つと、ルーベンスの真紅の瞳は微かにだが深みを増した。一刻も早く、彼女を"本当の彼女"に戻さなければ。
「俺はずっと考え続けていた。教会に必要なのは武力なんかじゃない。君みたいな内気でも優しくて、他人の気持ちが痛いほど分かる人間の方が必要なんだ。だから……君には、そうなって欲しくなかった。」
「今更言っても……何もかも遅いのよっ! 遅すぎたのよルーベンス!」
「もう、元には戻れないのか」
「うああああああああああ!」
 悲しげにルーベンスは顔をあげた。何か元に戻す方法はないのか、もう二度とあの時には戻れないのか……男の苦悩を他所に、エリエルは何の迷いもなく、ただ男を打ち倒す為に雪を蹴った。
 ――倒さなければいけない。
 ここでやられるわけにはいかなかった。自分はまだ何の約束も果たしていない。まだ、死ねない。
 ルーベンスはついに悲嘆の瞳を捨てた。すると、男は一瞬にして機械になったかのように、その表情からありとあらゆる感情を消し去った。無造作に振り上げられた掌は、その"門"へと地獄の番犬を招待していた。半ば狂気にどっぷりと浸かり、エリエルは意味不明な叫びをあげながらその爪を振り上げる。対峙するルーベンスは、ただ無慈悲な視界で彼女の姿を確認した。そして、言葉と共に異世界の魔獣を紡ぎだす。
「ルーベンス・バロールが召喚する」
「あああああ!」
「――ケルベロス」
 ルーベンスが静かに呟くと、眼前まで迫っていたエリエルは、五つの鋭い斬撃に襲われ、遥か後方へ吹っ飛ぶ。赤い奔流を撒き散らしながら五、六回程雪に叩きつけられると、激しい痙攣を起こしながら白い絨毯の上で苦痛に転がりまわっている。右腕は肘から先が見事なまでに切断されており、続けて届いた右肩への斬撃は、ばくりと開いた傷口と鮮血が致命傷である事を物語っていた。胸部にかけても縦一文字に深々と引き裂かれており、心臓の鼓動に合わせるかの如く血液を噴出している。残りの二つの傷は、辛うじて身を捻ったのか、白っぽい骨格のような物が見える程度に肉を抉っていた。至近距離でケルベロスを放たれてはこうなるのも当然であった。普通の人間ならば木っ端微塵に吹き飛んでいる所だ。彼女は人間である事を捨てている為、あくまで原型を止めているに過ぎなかった。
 血を流し続け、痙攣が全く止まらない彼女の側にルーベンスは立った。傷の修復もこれでは間に合うまい。いずれ全身の血が流れ落ち、この女性は死に至るだろう。
 こんな事にしてしまったのは自分のせいだ。無残な姿を晒す彼女を見下ろし、その名を小さく呟いた。
「エリエル……」
「これ……で、勝った……つもりぃ? まだ、アタシは……負けて……ごふっ!」
 エリエルは紫に染まりかけている唇を吐き出した紅で元の色に染め直した。もう意識も途切れかけているらしい。それでも何が悔しいのか、精一杯の虚勢を張って起き上がろうとする。
「……まだ……よ! まだ、まだぁ……!」
 エリエルがまるで命を絞ってそう叫んだかと思った瞬間、ルーベンスの真上を黒い影が素早く通過した。
 ――亡者? それにしては動きが素早い。
 ルーベンスが視認した時にはもう襲い。通過した影は、先程氷河の森で戦闘した武装した亡者のそれである。あれ一匹でも通常の亡者よりは戦闘力が高い。町で暴れられると住民の被害は計り知れないだろう。
 ルーベンスはその亡者をしとめようと足を上げたが、その足首には何か強力な力が働いていて、身動きが取れない状態に陥ってしまった。原因はエリエルだ。血反吐を吐き、苦しそうに笑いながらルーベンスを憎らしげに見上げているのだ。振りほどこうとするが、何故かその左腕は決してルーベンスを離そうとはしない。こうしている間にもあの亡者は町へと侵入していく。
 負傷し、逃げ遅れた兵士を標的にした化け物は、手に握った長剣をおもむろに振り上げる。ルーベンスはその兵士の背中が両断されるのを幻視した――が、真横から吹き荒れた鈍い衝撃に亡者は薙ぎ倒されていた。何が起こったのかも分からず、びくびくと体を痙攣させながら起き上がろうとするが、その頭蓋には死神が振り下ろした大鎌が鋭く突き刺さっている。雪の上に縫い付けられた脳天は、亡者を死に至らせるには十分だった。兵士を守ったのはヘクセンだった。まだ大鎌に支配されていないらしく、亡者の沈黙を確認すると力の放出を止め、鎌を仕舞った。
 ルーベンスはその姿を確認するとほっと安堵した。エリエルも亡者の沈黙を見て、諦めからか、力尽きたように神父の足首から手を離した。
「キャハハ……ここまでみたい……ネ」
「エリエル。何故悪魔の仲間入りなどした」
「言ったでしょ? 昔のままのアタシじゃ……生きて行けないって」
 エリエルは力なく笑う。完璧な敗北を認めた、潔い顔だった。ルーベンスの真紅の瞳は深き海の蒼の瞳と変化し、それと共に身体も縮んでいった。徐々に冷たくなりゆく彼女の掌を両手でぎゅっと包み込むと声をかける。血が大量に流れている。もうこれでは助かる事はできない。
「……内気なままでも、優しいのなら……生きて行けない訳ないじゃないか。なんで、なんで亡者の仲間なんかに……!」
「キャハ……ハ……ルーベンス、らしい……ね」
「すまない……こんな結果になったのも、僕が異変に気付けなかったからだ……すまない」
 ルーベンスは涙を流しながら彼女に語りかける。もう、彼女の意識も数秒で途切れる。泣いている少年の頬を、不意に暖かい手が撫でた。女性は微笑み、そしてその唇は確かに紡いだ。
 ――最後に気付いてくれてありがとう――と。
 それを期に、頬を撫でていたエリエルの掌は急激にその温度を失っていた。今のは感覚神経が錯覚を起こしたのだろうか。否、頬にはまだ僅かに優しい余韻が残っている。あの微笑みこそが、エリエルの本当の姿だったのだ。
 ルーベンスは冷たくなったその掌を、そっと雪の上におろした。胸の前で十字をきると、途方もなく蒼白い夜空を見上げ、涙しながら冥福の言葉を紡ぎだす。
「安らかに眠れ……エィメン」
 少年の流した涙が頬を伝い、彼女の唇に落ちた。

  ◇

 エリエルの死により、ゼブルに攻めてきた亡者達も、まるで主を失った操り人形のように次々と崩れ去った。彼女が亡者達に魔力を与えて操っていたらしい。彼女が死に、魔力を供給するモノが無くなると、自滅していくシステムだったのだろう。
 そうして戦いも終結を向かえ、二日後。夕暮れも近くなり、ルーベンスとヘクセンは町の様子を見ながら歩いていた。少年は何やら重そうな物を担いでいるが、それが何なのかは布に包まれていて分からなかった。その横で相変わらず静かに歩いている従士の表情は、まさに涼しげなそれであった。町は徐々に元の活気を取り戻し始め、外では元気に子供達が遊んぶようにまでなっていた。亡者の襲撃で全焼した民家もあったのだが、徹夜による住民達の作業もあり、全ての家の土台までは復興していた。戦闘時はあれだけ静まり返っていた食堂も、今では満席の大忙しである。料理長が慌しく動き回っているのがちらりと見えた。その様子にしばし微笑み、ルーベンス達は更に北を目指した。
 町の外れまでたどり着いた所で、ルーベンスは何やら布に包んで担いでいた物を、ずんっと雪の上に突き刺した。そして一息つくと、布を一気に引き剥がす。地面に突き刺さったそれは紛れもなく石製の十字架だった。
 ――エリエル・ドルセン。
 そう深く石に刻まれた名を見て、少年は悲しげな微笑みをたたえた。すると、今度はその十字架の前に跪き、胸の前で十字をきり、手を組んで祈った。
 どうか彼女が迷う事無くこの先も"生きて"いけますようにと。
 罪人を責めきれない自分の甘さも感じながら、ルーベンスは唇を結んだ。
 すくりと立ち上がると、すぐ側に控えていた従士に行こうか、と目で合図する。
 ルーベンスは一度、聖王国マルクトへ戻ろうと考えていた。理由は二つ。エリエルの隠れ家から発見した、亡者の国ミクトランについての移動手段の確保。なにしろ海を渡らなければミクトランのある大陸にはいけないからである。それに客船は亡者の国になど航路を取らない為、特殊な船が必要になってくる。それらの手配をしようと思えば、セラフィムの力が必要になってくると言う訳である。そしてもう一つは今回の任務。マリエル殺しの五人組を追いかける事についてである。彼らを追いかけて捕獲するのであるのならばまだ理解できたのだが、今回の命令はおかしな部分が多い。エリエルは最後の最後で元の姿に戻った。ならば、他の人間にもそれと同様の事が起こってもおかしくないのではないか?
 助けられた命だからこそ、ルーベンスは今回の事で教会を敵に回す気であった。エリスが直接このような命令を下すと言う事はまずありえないからだ。彼女の人柄を知っているからこそ言える事なのだが、恐らく今回マリエル殺しの件で手を回しているのは、エリスより上層部の老人達――自らは安全な場所にいて手を汚さぬ卑屈な老人達が暗躍しているのだろう。
 だが、教会すら敵に回す価値のある抗議だと、神父は信じていた。きっと自分のような意思をもつ人間が居るはずである。これ以上、悲しみの連鎖を生み出す訳にはいかない。
 もうこれ以上、エリエルのような悲しい者を生み出さない為に。
 ルーベンスは決意を込めて一息つく。白い息が風に流されるがままに舞う。拳を握り締め、凛とした顔で前を向いた。
「次の目的地は?」
 従士は静かに訊ねた。だが、その声とは裏腹に、守護天使のそれと同等の安らぎを持った瞳で主を見つめる。
「聖王国マルクト。真実を確かめたい」
 淡々と告げるルーベンス。その表情が少し曇ったのは、本来なら任務が終了するまで帰ってくるなと教会の老人達に言われていたからだ。だが、まるで主を励ますように、ヘクセンは何の躊躇いもなく老人達の命令を無視する事にした。
「私は貴方を守る為にここへ来た。貴方を守る為に、私は剣となって働きましょう」
「ありがとう」
 従士のありがたい言葉に、天使のような微笑でお礼を言うルーベンス。
 そして、一歩踏み出し、マルクトへと少年達は歩き始めた――。

  ◇

 一方、教会では戦いに勝った事で盛大な大騒ぎをしていた。肩を組み、勝利の余韻に浸る兵士たち。頭や腕に包帯を巻きつけたまま騒ぐ者もいた。大司教であるはずのヴァイドも、この日ばかりはと禁酒法を無視し、大盤振る舞いで自らも酒瓶を次々と空にしていった。
 その騒がしい様子を見ながら、ライザは頬杖をついて、火の点いた煙草を吹かした。もくもくと目の前を漂う紫煙を視界で追いながら、ただ漠然と呟いた。
「ワイら、ホンマに勝ったんやな」
「おう! 何いってやぎゃる! 俺たちゃ勝ったんらよ! めでてぇらぁ!」
 大司教はすっかり酔いがまわったらしく、呂律の回らない舌で誰にともなく叫んだ。
 ライザはそう言って酒瓶をまた空にしたヴァイドを一瞥すると、席を立ち、大聖堂の扉を押して、そっと五月蝿い宴会場を後にした。
 ふと、半ば夕暮れの空を見上げる。白い二、三羽の小鳥がじゃれ合うようにして飛んでいく。今から巣へ帰って、疲れを落とすのだろう。そんな他愛もない事を考えながら、視界にはゆっくりと流れる雲と、紫煙が映る。ただ呆然と、何か虚しい気分になり、溜め息を一つ。戦いは終わった。だが、失ったものも大きかった。友はあの空の上に、無事辿り着いただろうか。
 感傷に浸っていると、坂道の向こうから少年神父が元気そうに歩いてきた。ライザは先程までの態度を悟られぬよう、いつも通り、右手をあげ挨拶する。
「よぉ」
「あ、ライザ。皆は?」
 訊かれてライザは親指を立て、そのまま教会の扉を指した。少年は納得したように首を縦に振ると、続けて訊ねる。
「約束通り、食堂に行こうと思ったんだけど……」
「そか、んなら俺が呼んできたるわ」
 手を挙げて踵を返す神父を見て、少年はその名を無性に呼びたくなった。自分の本当の姿を見た者とは、こうして普通に話すこともできないからだ。
「ライザ!」
「ん?」
 首だけ回して少年を見るライザ。どこか悲しみをたたえた笑顔はこちらを見ている。目を細めながらその表情を眺める黒衣の神父。感情を探られている事に気付いたルーベンスは慌てて満面の笑顔を浮かべて、悲しみを押し隠し、嬉しさを面にだす。
「先、行って待ってるからね」
「おう。はよ行くようにオッサンらに言うとくわ」
 返答は呆気ないものだった。それは友人同士の他愛無い会話にも見えた。首を前に戻し、ライザは教会の扉を開く。ルーベンスも彼とは逆に振り向き、ヘクセンに微笑みかけて、食堂へと向かう。


「オイ! 食堂行くで! 祝いや祝い!」
「おお! てめぇ何指揮ってやがる!」
 唐突な提案に、ライザの肩を強引に掴むヴァイド。かなり飲んでいる。酒臭い。その提案に賛成したのか、二次会だとでも思ったのか、五月蝿く騒いでいた兵士たちも、ぞろぞろと教会を出て食堂の方へと向かう。その後をシスター達が、そして最後に消灯を済ませたライザとヴァイドが教会を後にする。
 足取りのおぼつかない男を、ライザはその肩を貸すことで支えてやった。
「おいコラ! しっかりしいや!」
「んああ……?」
「ったく、久々の"家族"での夕飯なんやで! 感謝しいや!」
「へっ……なげぇ間、アイツには会ってなかったからなぁ」
 ヴァイドはその時、酔いを感じさせぬ懐かしそうな笑顔を浮かべた。だがそれも少しの間だけの事。すぐに足元を絡ませ、今にも転びそうに歩いている。ライザは再び肩を担ぎなおし、沈みかけている夕日を前に溜め息をつく。
「オカン、まだワイらの顔覚えとるとええんやけどな」
「ハッ! 家族の顔を忘れるようじゃ、俺様の嫁なんかじゃねぇよ」
「よう言うわ。オカンほったらかしにしといたんは誰や?」
 その一言でヴァイドは急に空々しい態度になった。居心地悪そうに鳴らない口笛まで吹きだす始末だ。顔をそむけながら言い訳がましく呟く。
「まあ、大司教としての立場もあるしな」
「お前は世の中で一番大司教らしくない、大司教やでホンマ」
「親はお前呼ばわりとは何だてめぇ!」
「お前も息子をてめぇ呼ばわりとは何や」
 しばらくしかめっ面でにらみ合う二人。だが、先に馬鹿らしくなって溜め息をついたのはライザだった。それを見ると、ヴァイドは勝ち誇ったかのように豪快に笑った。
「がっはっは! やはり親父には勝てんと言う事か!」
「何やとコラ、今ここで勝負したろか!」
「おうおうやるか!」
 二人は距離をとり、真剣な目つきで拳を構える。しかし、今にも殴りかかりそうな二人を止めたのは澄んだ優しさを帯びたシスター・アグネスの声だった。
「何をやっているんですか二人とも。早く行きますよ」
「「……」」
 ライザとヴァイドは顔を見合わせしばらく沈黙する。そして目配せだけで和解したかのように拳を下ろし、ルーベンスの待つ食堂へ向かって、再び二人並んで歩き始めた。

 勝者達の宴は食堂貸切の状態で夕方から深夜にかけて盛大に行われた。
 その席で、ライザは珍しく酒を飲んでいなかった。母親と喋っている父親を離れたテーブルから見ながら紫煙を吐き出す。隣をちらりとみると、いつの間にかそこにはルーベンスが座っていた。側にたたずんでいるのは、無表情な従士だ。少年の瞳は、両親の顔を眺めるライザの視線を必死で追いかけている。
「料理長とヴァイド。仲良いんだね?」
「そりゃそうやろ。夫婦なんやし」
「えっ? そうだったの!」
 ルーベンスは視線を慌てて料理長とヴァイドからライザに移す。その顔は、どこかそんな気はしていたが、まさか事実だったとは知らずに驚愕しているそれであった。
 ライザはその面白い顔を一瞥すると、肩をすくめながら頷いた。
「ちょっと驚きだね」
「いんや、その表情はかなり驚きやろ」
「……バレたか」
 向こうの方で数人の兵士達が踊り始めた。酒の酔いがまわって、気分も最高潮なのだろう。ヴァイドは妻の両手を握ってこの場に似つかわしくないダンスを踊っている。シスター達もこの時ばかりは堅苦しい歌は歌わず、テンポの良く明るい歌を笑いあいながら幸せそうに歌った。
 既に太陽と仕事を交代した月が町を明るく照らしていた。異常気象であった猛吹雪も今ではもうない。あの気象はエリエルの仕業だったのだろうか。
それとも、今一時だけ神が吹雪を止めていてくれているのだろうか。どちらにせよ、宴は続けられた。
 ルーベンスは窓の外に見えるクリーム色の月を見上げながら微笑んだ。優しく光るその様子は、どこかマリエルを思い出させた。ライザが煙草を灰皿に押し付けるのとほぼ同時に、少年は席を立っていた。
「どこ行くんや?」
「いや、ちょっと外の空気を吸おうかなって思ってね」
「そやな。ここは酒臭い。お前みたいなヒヨッコには耐え切れんやろ」
「まぁね。じゃあ失礼するよ」
 ルーベンスは皮肉を気にする事無く従士をちらりと見た。目配せをしあい、二人ともが小さく頷くと、テーブルを後に、ルーベンスは食堂を出た。
 騒がしい様子は一向に収まる気配がしない。少年は名残惜しそうに振り向くと、深々と頭を下げた。吐く息は相変わらず白い。異常気象は無くとも、ゼブルはいつでも低気温だ。
「これでこことはさよならだね」
 そう呟くと、少し遅れてヘクセンが食堂から出てきた。
「それじゃあ、行こうか」
 ルーベンスの背中には、いつの間にか支度をきっちりと終わらせたコンテナが背負われていた。従士が頷いたのを確認し、二人は月光に導かれるように聖王国へ向かい歩き始める。
食堂を中心に、街は活気付いていた。今日一日、この街は眠る事をしらないだろう。ルーベンスはその楽しそうな声を聞きながら、徐々に急ぎ足になった。どうにもこう楽しそうだと、もう一日長居してしまいたくなるのだ。
 しかし、少年の足取りがふと鈍くなる。従士もその理由に気付き、歩調を主に合わせた。
「ルーベンス、どうするの?」
「……困ったな」
「話はしっかりつけてきてちょうだい」
 素っ気無く従士が言うと、ルーベンスは大そう困惑した表情で立ち止まった。ヘクセンはそのまま歩き続け、少年神父は背後に長く落ちていた影を見ながら振り向いた。
「どうかした?」
「まだ宴会は終わってないで。どこに行くつもりなんや」
 紫煙を吹きながら立っていたのはライザだった。ルーベンスが宴を抜け出し、国へ帰ろうとしていた事がバレたらしい。少年は言い訳するわけでもなく正直に返答した。
「聖王国マルクトへ帰ろうと思ってね。上の指示も仰ぎたいし」
「そうか……」
 俯き加減にライザは煙草を口へと持っていく。しばらく二人ともが黙り込んでいたが、やがで口を開いたのは追いかけてきた神父であった。
「ワイも連れて行ってくれんか」
 薄々は予想していた言葉だったが、いざそう言われるとルーベンスは迷ってしまった。これから相手にする連中は恐らくエリエル以上の強者であろう。その危険を分かっていながら、むざむざ部外者を巻き込むわけにはいかない。
 しかし、ルーベンスが首を横に振るよりも早く、ライザの言葉が拒否を遮った。
「ワイは一昨日みたいな事が世界で起こってるんなんか知らんかった。なにせこのゼブルから出た事なんかなかったからな。でもな、ワイかてあの戦いで何も感じんかったワケやない。世界であんな戦いが起こってる言うのに、ワイだけ今日ここで安穏と生きていてええんか? そう思うたら、ランスの顔が次に思い浮かんだ。ワイはあいつを守ってやれんかった。亡者を潰せても、誰も助けられん力なんかワイは欲しくない。お前について行けば、何かを守る為の力が身につく……そう思うたんや」
 何かを守る為の力――そう聞いて、ルーベンスの顔に悲しみが過ぎった。
激しい無力感を感じたような瞳で、握り締めた拳に視線を落とす。
「僕が持っているのは誰かを守る為の力なんかじゃないよ。自衛の為に得た力なんだ」
「お前は人を守る為にその力を振るうてるんちゃうんか?」
 ライザの質問にルーベンスは答える事が出来なかった。確かにそうだ。この力は自衛の為に得た力だが、今では誰かを守る為に振るっている力だ。だが、大切な友人すら守れなかった力を守る為の力と肯定するのは、抵抗があった。
「僕は人間側の悪魔だ。だから人間には力を振るわない。僕はある二人を倒す為だけに力を振るっている。それだけなんだよ」
 きっと、これが今答えられる精一杯の解答だ。少年は再び振り返り空に浮かぶ月を仰ぎ見る。ライザはその答えを聞いても、どうやら怯まなかったらしい。
「ワイかて人間側の人間や。正直言うと、亡者が憎い。ワイは無差別に仲間を奪う亡者を許せへん。
これは復讐や。ワイも綺麗事やない」
 ルーベンスは顔だけをライザに向ける。男の顔は何を言われても動じない、自らの意思を貫き通す姿勢をみせていた。
 やれやれと溜め息をつくと、少年はかぶりを振った。
「頑固だねぇ、君は」
 ライザはお互い様だと言うように口を引きつらせる。ルーベンスがゆっくりと歩き出すと、それにあわせるかのように早足でライザが横に並ぶ。顔を見合わせたかと思うと、二人が二人とも溜め息をつく。

 穏やかなクリーム色をした月が彼らを照らしていた。
 それはまるで危険を警告するかのように輝いていた。それと同時に、彼らを見守る慈愛の女神のような雰囲気も漂わせていた。
 北の門でヘクセンと合流した二人は、一路マルクトを目指す。
 少年は再び月を仰ぎ見て、その穏やかな色に既にこの世にはいない彼女を思い出す。
 ――彼女の成せなかった事を、自分が成し遂げてみせる。
 ルーベンスは凛と前を向くと、力強くただ前に踏み出した。


              『NIGHT KING』 END