ヘリオポリス魔導アカデミーの運動場で一人の少年が背伸びをした。短い体操服にどこか遠くをじっと見据えたような深い夜の色をした瞳。肩にかかるくらいに整えられている炎のように赤い髪を振り、口元に手を当てた。遅れて欠伸。目元に涙がたまったのを拭い、辺りを見回す。
今は体育の時間だ。回りで男子生徒が身体テストを受けている。体育教師が少年の名を呼んだ。
「次、クーヤ! お前だ」
クーヤと呼ばれた少年は少し照れくさそうにしながら男子生徒をかき分けて前に出た。五十メートル走が何秒で走れるかと言うテストらしい。試験の概略を理解した所で、クーヤはグラウンドの砂を脚で撫でる。アカデミー二年生平均タイムは八秒である。教師がスタートを呼びかける赤い旗をあげた。
「よーい……」
「よし、頑張れ僕!」
教師が赤い旗を一気に振り下ろした瞬間、クーヤの全力疾走が開始された。グラウンドの砂を蹴って一目散にゴールへ目指す。風が頬をすり抜ける。出だしは好調だ――が、あくまで出だしは。
半分を過ぎたところでペースはガタ落ち。へろへろのままゴールした時、ストップウォッチは十五秒を示していた。
男子生徒たちの深い溜め息、そして教師が心底呆れたように頭を抱えるのを見て、クーヤはただただ苦笑いを浮かべるしかなかった。
「これで全員終わったな」
体育教師、杉村 トウジは腕時計に目をやった。体育の授業に終わりを告げるチャイムまであと二十分も余っている。顔を上げると、そこには希望を露に目を輝かせてこちらを見つめる生徒達の姿。杉村はやれやれと言ったように頭を掻くと、一つ息をついて言った。
「テストも終わった事だ。あとの二十分は自由にしていいぞ」
感激に生徒達が沸いた。杉村はその生徒達の姿を見て微笑んだ。そんな杉村の元に、先程絶望的な記録を叩き出したクーヤがしょぼくれた顔で訊ねてきた。
「あの、先生。今のタイム何秒でした?」
「聞いて驚けクーヤ。十五秒だ」
本当に驚いたらしく、クーヤは酸欠状態の金魚みたいに口をぱくぱくさせている。杉村は教え子に少なからずショックを与えた事を自戒し、それとはなしにフォローを入れる。
「まぁ、何だ。運動ができなくてもお前に何か一つでも取り得があれば良いと俺は思うがな。そうがっかりするな」
「はい……でも十五秒は酷いですよねぇ」
「クーヤ、お前は出だしが良いんだが、どうも途中から体力が切れて速度が落ちるんだ。全体を見る目を持て。ペース配分は重要な事だぞ?」
教師の言葉にクーヤは顔をあげる。先程よりかは少し明るい表情、どうやら自分は上手くフォローを入れることができたらしい。
「ありがとうございます。先生」
「お前は魔術の成績はまずまず上の方なんだ。その調子で体力もつけておけよ」
「はい」
今度は笑って返事をすると、クーヤは杉村を後に歩き出した。するとあまり歩かないうちに背後から誰かが飛びついてきた。
「うまい事手ぇ抜くもんだよなぁ!」
「ディオン!」
同じく体操服に蒼い短髪、悪戯な子供を思わせる光を宿した瞳。不敵な笑みを浮かべながらこちらを見ている。
「ふっふっふー、俺のタイム教えてやろうか」
「何秒だったの?」
「七・五秒だ!」
親友の口から出た数字に微笑むと、クーヤは心からの賛辞の言葉を送った。
「相変わらず凄いなぁ! 運動させたらディオン凄いよね」
「今のは聞き捨てならんな。運動以外は出来ないみたいじゃないか」
「だって魔術試験いつも下の中くらいって先生が……いたっ!」
最後まで言い終わる前にディオンの拳がクーヤの頭にめり込んだ。少し涙目になりながら親友の顔を見上げる少年に、ディオンはしてやったりと言う悪戯小僧のような笑みを浮かべていた。
「確かに魔術は苦手だけどな。もっともっと練習して強くなってやる」
「僕等、卒業しちゃったらどこの部隊に配属されるんだろうね」
ぽつりとクーヤが不安を口にした。ディオンは神妙な顔つきになり、その場にどかっと座り込んだ。クーヤもまたその隣に座ると、蒼い空を見つめていた。
「あんな綺麗な空から、悪魔が降ってくるなんて考えられないよね」
「ああ、本当に」
親友の口調が重くなったのを察して、クーヤはあたふたと慌てながら謝った。
「ごめん! 君のご両親は……」
「かまわねぇよ。悪魔に親を殺されたなんて、どこにでもある話だ。俺だけが不幸な訳じゃねぇよ」
「でも、不幸には変わりないよ……」
自分より表情を暗くしているクーヤを見て、ディオンは十七歳とは思えない豪快な笑みを飛ばした。赤髪の少年はきょとんとした顔でディオンを見た。
「お前ってホント、変な奴だよな。人の不幸を自分の不幸みたいに感じてさ」
「そ、そうかな?」
照れくさそうに頬を掻いている少年を見て、ディオンはふと笑顔になった。この少年には人を笑顔にさせる力があるに違いない、ディオンは初めてクーヤに会った時からそう感じずにはいられなかった。この少年の持つ独特の雰囲気、時間がゆっくりと流れるこの感触は安らぎ以外の何者にもならない。ディオンはグラウンドに寝転がったかと思うと、蒼い空を見上げながら口を開いた。
「少なくともお前みたいな友達は初めてだな。俺あんまり自分から人に寄り付かない方だし」
「そう言ってもらえると嬉しいよ」
素直に喜びを表しながらも、相変わらず照れ隠しのように頬を掻いているクーヤを見て、ディオンは再び空を見た。この空は自分の全てを奪った空だ。だが、こいつと過ごしているなら、目の前に広がる憎い青空も、自然と美しいものに見えてきてしまう。
「悪魔さえいなけりゃ、今頃世界はどうなってたかな……」
ディオンの言葉に、クーヤは答える事ができなかった。
遠い昔、"栄光の世界"と呼ばれた時代が存在した。だが、突如青空を裂いて到来した"人の形をした人あらざる者"の侵略を受け、世界は壊滅的なダメージを受けた。人々は襲来者達を"悪魔"と呼び、悪魔はその強大な力で星そのものを侵略していった。
人々は悪魔に対抗する方法を模索していた時、"魔力"と"法力"言う特殊なエネルギーを発見する事に成功した。"魔力"は圧倒的な力を誇る"魔術"を人間に授け、"法力"は人々を癒す"法術"を授けた。そして、その絶大なエネルギーの賜物か、人間達は悪魔との戦いを互角にまで持ち直す事が可能になった。
しかし、今からさかのぼる事十年前。歴史上で最悪といわれた人間と悪魔の戦争が勃発した。
――ラグナロク。
"終末の日"と呼ばれるその日を境に、世界の中心に戦争の傷跡とも言えるクレーターが穿たれた。原因は人間の最終兵器によるものだった。それにより、悪魔をほぼ殲滅する事もできたのだが、それ以上に大きかったのは人間側に降りかかった損害だ。世界の中心部、人口も技術も集中するその都市で兵器を使用し、周辺地域は当然の如く消し飛んだ。死者は計り知れず、同時に"栄光の世界"と呼ばれていた由縁となる技術や技師をも失う結果となった。
そこから世界は転落の一途を辿り、現在では生き残った人々が寄り添いあい、世界数十箇所にある魔導アカデミーで魔術と法術の習得に励んでいる。
一方、ラグナロクで軍勢の大半を失った悪魔はと言うと、いまだに蒼い空を割って次々と大地に降り立ち、軍隊でも対処が追いつかないほどにその数は増している。そして、ついに第二王国"エリドゥ"の政府から徴兵令が発令された。
徴兵令が敷かれてから三年。十八歳以上、魔導アカデミー卒の男女を軍隊へと取り入れる規則は、最初の方は反対が多かったものの、反対する人間さえ悪魔に蹂躙され、今では卒業すれば軍隊行き、と言うのが世の理になっていた。
ここ、ヘリオポリス魔導アカデミーは数少ない魔導アカデミーの中でも最大とされ、この学校から徴兵される男女は一番多い。あと二年も経てば、クーヤもディオンも軍隊へと配属される運命なのである。
向こうの方で女子が身体テストをしているのが見える。クーヤはどこか遠くを見つめている。その深い夜の色は他人には見えない何かを見据えているようだった。ディオンも同じようにその視線の先を追いかけるが、そこは何も映らない。ただただグラウンドが広がっているだけだった。
不意にチャイムの音が校舎から聞こえてきた。それを合図に今まで自由時間を使い遊んでいた生徒達がぞろぞろ校舎へと帰っていく。ディオンが勢いをつけて起き上がると、クーヤもそれに続くように立ち上がる。昼休み前の更衣室は戦争状態だ。いち早く食堂へ行こうとするものが多いからである。クーヤにとってその争いは興味のないものであり、別段ゆったりとマイペースに更衣室へと帰ればいいのだが、ディオンは違った。彼は弁当と言うものを持参していない為、食堂で昼食が買えないイコールその日一日の空腹が約束されてしまうのだ。半ば駆け足の状態で親友は振り向きながら大声で言った。
「おい、クーヤ! 先行くぞ!」
「うん、頑張ってねディオン」
「おう、まかせとけ!」
そう言って威勢良く右腕を振り上げると、ディオンはその持ち前の瞬発力で校舎へと走って行く。クーヤは一人ぽつんと突っ立ったまま、手をひらひらさせて親友の背中を見送った。
青空が少年を見下ろしている。クーヤが振り向くと、風は優しく頬を撫でた。誰にでもなくにこりと微笑むと、赤髪の少年は踵を返し、校舎へと歩き始めた。
アブソリュート ウィザード
―― 一 ――
『その少年、凶暴につき』
戦争は目の前で繰り広げられていた。レジへと群がる男子の群れ。それを控えめな眼差しで見守る女子生徒達。そして自分はというと、専ら傍観者にていしていた。あの争いの中へ入るなどとは、自殺行為もいいところだ。
ヘリオポリス魔導アカデミーの食堂で、この光景は日常茶飯事である。
限定二百個のカレーパン。続いて食堂の美人料理長の握る限定二十個の巨大おにぎり。もはや幻の一品とも言われている限定たった五つのカニクリームコロッケなどなど……食堂の魅力的なメニューの奪い合いに男子生徒は燃えているわけである。女子はと言えば自分で作った弁当を食堂まで持ってきて食べている。この魔導アカデミーの食堂は広い事でも有名であった。
クーヤは無益な争いから少し離れたテーブルに落ち着いていた。大きなハンカチに包まれた弁当を取り出しながら、箸箱から箸を取り出す。クーヤは俗に言う洋食ではなく、和食で構成された弁当をよく食べていた。二段積みにされた弁当箱の上には米が、下には煮物や卵焼きと言った品が入っている。この大掛かりな弁当を作ってくれるのは、今しがたテーブルを挟んで前に座った双子の姉妹である。
「く・う・や! 今日は腕にのりを巻いてあたしが作ったんだよ!」
「腕にのり巻いてどうするの。腕によりをかけたんでしょ」
「メグ姉、細かい事気にしないの!」
「ありがとう、ヒナちゃん。早速いただくね」
ヒナ、こと木之本 雛子がクーヤをあまりにも急かす様に見つめるものだから、赤髪の少年はそれに答えるしかない。弁当箱を開けると、まず定番である卵焼きを箸でつまみ、口の中へと放り込んだ。ヒナの味付けは、メグこと、姉の木之本 恵と違い、甘口である。それは醤油に比較して砂糖の量が倍と言う事である。ところどころに焦げ目がついて、見た目はお世辞にも良いとは言えないのだが、味の方はそう悪くはない出来である。美味しそうに笑顔を浮かべると、クーヤは正直な感想を述べた。
「美味しいよ、ヒナちゃん。今日は上手く味付けできたんじゃない?」
「あたしの味付けはいつでもパーフェクトだよ! ほら、他のも食べて食べて!」
煮物やら豆やらを指しながらヒナは急かす。クーヤはマイペースにそれを聞き入れながら、次々と料理を口へと運んだ。
それを横目に、静かに弁当を開いたメグは、思いついたように話を持ちかけた。
「クーヤ、今月電気代馬鹿にならないわよ。バイトの方いくら入りそうなの?」
「え? そうだなぁ……今月よく働いた方だし、五万はもらえるかな」
「なら全部電気代にまわしとくわね。私は食費、ヒナは水道代」
クーヤはげっそりしながら米を食べた。この双子とは小さい頃からの付き合いだ。親をラグナロクで失い、それからずっと親の家を使って、一つ屋根の下で暮らしている。もちろん、この事は教師に話してはいない。と、言うより、むしろ生徒にばれた方がよっぽど危険なのである。目の前で一緒に弁当を広げている双子の姉妹は、アカデミー内でもナンバー一、二を争う人気を誇っている少女達なのである。本人達に自覚は無いのだが、こうして食卓を囲んでいる間にも、他の男子生徒の視線をクーヤは痛いほど浴びせられているのである。
姉、木之本 恵と妹、木之本 雛子を見分ける方法は少ない。なにしろその夕日の色のかかった瞳は一緒、エメラルドを思わせる髪の色も一緒。数少ない判別方法としてあげられるのは、メグの表情は少し冷たいものを感じる事と、それに対してヒナは陽気な明るい表情。メグは背中まで届く髪の長さと、ヒナはツインテールにまとめている事くらいである。
幼少時代から共に過ごしてきたクーヤにとって、彼女達を見分けるのは造作も無い事だが、男子生徒のほとんどは彼女達を間違え、ヒナに渡すはずのラブレターをメグに渡して絶対零度の拒絶を受け号泣したり、メグに渡すはずだったプレゼントをヒナに渡し、それが食料だったりとすると全てメグに届く前にヒナに食い尽くされてしまう。
クーヤは弁当箱の中に残っていた最後の卵焼きを頬張ると、弁当の蓋を静かに閉じた。ごちそうさま、と小さく言うと、一息つきながら背もたれに体重を預けた。
「メグちゃん、体の方は大丈夫?」
優しく微笑みながらクーヤはさり気なくメグに言った。メグはと言うとすぐにクーヤから目をそらし、照れ隠しなのか、少し硬い声で答える。
「大丈夫よ。今日はまだ楽な方」
「そっか、よかった」
「クーヤは? 皆随分呆れてたわよ。走るのが遅いって」
痛いところを突かれた。クーヤは苦笑を浮かべながら頭を掻いた。
「しょうがないよ。僕、運動だけはからっきしだめなんだから」
「でも病気の方はもう大丈夫なんでしょう? 先生にちゃんと見てもらってる?」
「うん。先生はまだまだだって言ってたよ」
クーヤは急に居心地悪そうにきょろきょろし始めた。水筒からコップにお茶を注ぐと、それを一気に飲み干す。必死で別の話題を探そうとしたのに気付いたのか、メグは鋭い目つきでクーヤを見つめる。
「クーヤ、ちゃんとこっち向いて。自分の体の話になると途端逃げるんだから……私は自分より貴方の方が心配なのよ? 小さい頃からずっと風邪ばっかりで……」
「でも最近は大丈夫だし、もうどうって事ないって事だよ」
そう言われるとメグは黙るしかない。確かにアカデミーに入学してから半年経った頃から、クーヤは持ち前の体の弱さを全くと言って良い程見せなくなった。かかりつけの医師がいるにはいるのだが、メグは彼の前でクーヤの事を聞く事はしなかったので、クーヤの身体に対する事は何も知らないに等しいのだ。先程、クーヤが心配したように、メグ自身も体は弱い。あまり激しい運動には耐えられないし、疲れがたまればすぐに熱を起こしてしまう。この体質のせいで、随分と妹やクーヤには迷惑をかけた。
「クーヤ、無理しないで。何でも私に相談してよ?」
「うん、分かってる。ありがとう、メグちゃん」
まるで天使のような微笑みを浮かべたクーヤ。その笑顔を見るといつも安心する自分が何処かに居る。メグがあまり見せる事の無い笑顔を向けるときは、決まってクーヤが微笑みを浮かべた後だと気付くものは、誰もいない。
クーヤは空になった弁当箱を持って立ち上がろうとした時、鈍い震動が床に伝わったのを感じた。遅れて緊急避難を警告するベルが、アカデミー内に響き渡ったのはその時だ。賑やかだった生徒達の声が、一瞬で恐怖の悲鳴と変わったのも無理はない。校内放送が間髪入れず生徒に指示を与えはじめた。
『生徒諸君。現在、我がヘリオポリス魔導アカデミーに接近する少数の悪魔を確認。直ちに各教室へ戻り、待機せよ。繰り返す、生徒諸君――』
「悪魔……」
クーヤは壁際に走り、窓からグラウンドを見た。何か黒い翼を生やした得体の知れないものがこちらへと向かってきているのが確認できた。すぐに踵を返したかと思うと、まだ状況が飲み込めていないヒナを立ち上がらせ、メグを見る。
「教室に急ごう。教室なら教師が守ってくれる」
「ええ、そうね。ヒナ、行くわよ」
「え? えーっと、はい!」
走る二人の後をヒナは急いで追いかけた。
クーヤは胸騒ぎがしたのを感じたが、ただ二人を連れて走り続けた。
「バルザス、このままだと魔導アカデミーへ下りる事になるぞ」
「構わん。全員ぶち殺せばいいだけの話だ。何を躊躇うジェス」
漆黒の翼を背に生やした人……正確に言えば人の形をした人でない者、悪魔バルザスとジェスは今、人間の武器輸送トレーラーを破壊するために飛行していた。しつこく逃げ回られたが、もうそろそろ決着をつけなくてはなるまい。バルザスは一気に加速し、運転席の隣にまで下降した。中では二人の軍人が襲撃者の顔を見て恐怖に怯えている。窓ガラスをその豪腕で突き破り、ドライバーの顔面を鷲掴みにする。そのまま窓の外まで引きずり出し、まるでゴミをそのあたりに捨てるかのような気安さで、軍人を投げ飛ばした。ドライバーを失ったトレーラーは、完全にコントロール不能になり、アカデミーのフェンスを破って派手に横転する。逃げようとしていたのか、もう一人の軍人がドアを開いた瞬間、横転するトレーラーから投げ飛ばされ、植木に背中から叩きつけられたあげく口から血を噴出し、ついにはピクリとも動かなくなった。
バルガスは砂の上に着地すると、あたりを見回して鼻を鳴らした。
「アカデミーねぇ、貧弱なやつ等ばっかなんだろう?」
「魔術士を甘く見るな、バルガス。私達の目的は武器輸送車の破壊だ。これで目標は完了した」
「甘いねぇ、ジェス。ここのアカデミーの連中が軍に武器持っていっちゃあ、それこそ終わりだろうが」
「……」
バルガスは同僚の答えも待たずに指を鳴らし始めた。目の前には、まさか自分に対抗する気でいるのか、ローブを着た魔術士とやらがずらりと揃って歓迎してくれているではないか。
「命が惜しくないのかねぇ」
「悪魔め……攻撃を許可する!」
ローブ姿の人間達が一斉に詠唱を始める。だが、バルガスは大して焦った様子も無く、むしろ嬉しそうに同僚に賛成を求めた。
「ジェス、やる気満々なら沈めるしかねぇよな」
「仕方あるまい。やるぞ」
「消えろ悪魔め……!」
消えたのはローブ姿の男の首であった。悪魔が魔術師達の後ろに現れた瞬間、先程まで詠唱を続けていたはずの魔術士達が絶命していたのだ。かろうじて生き残っていた数人の者達も、見えない衝撃に頭蓋を粉砕され、完全に命を落としていた。
銀髪をなびかせ、真紅の瞳がその死体を哀れに見下ろしている。
「向かってこなければ死なずにすんだ」
「その通りだよなぁ、ジェス。こいつらは実に愚か極まりねぇ」
げらげらと笑っているのは両手を真っ赤に染めたバルガスだ。こちらはその豪腕と巨体にものを言わせ、魔術士達を粉砕したらしい。
ずしずしとバルガスは歩く。ジェスもその意味を理解したらしく、その後に静かに続いた。
つまり、こう言う事だ。
――素敵な殺人タイムの始まりだ、と。
「魔術士が全滅っ!」
校内がどよめいた。少なくとも迎え撃ちに出たのは上級魔術を取得する教員レベルの魔術士ばかりであった。その魔術士達がものの数秒で全滅したとの知らせが入ったのだ。皆も動揺を隠せない。
「どうするんですか先生!」
「落ち着けお前等。大丈夫だ、先生がなんとかする」
ずしんっ、と下の階で震動が起きた。それと同時に悲鳴が起こったが、その悲鳴もすぐにやんだ。教室にいては逆に危ない状態になってきたので、裏口から避難する方法で現在歩いているのだが、悪魔はそれを上回る能力とスピードで破壊の限りを尽くしているらしい。
杉村は生徒をつれながら廊下を走っていた。アカデミーは広い。階段まで到達するにも時間がかかるのだ。
しかし、その逃走劇も長くは続かなかった。背後で爆発音が聞こえたかと思うと、石の壁が崩壊し、煙の中から悪魔が姿を現したのだ。
既に生徒はパニック状態に陥っていた。我先に逃げようと、押したり突き飛ばしたりしながら走り出す。もはや杉村の声も届かない。
悪魔は容赦なく床に拳をたたきつける。すると一気に亀裂が走ったかと思うと、床が崩落し始めたではないか。
「クーヤ!」
崩落する床と共に落ちながらヒナが叫ぶ。クーヤが杉村と共に悪魔のいる上の階に取り残されてしまったのだ。
「ヒナちゃん! メグちゃん! 逃げろ!」
「クーヤ! くーやぁぁぁ!」
メグは安全な場所へと連れて行くため、ヒナを抱えて魔術を発動させた。するとメグは信じられない程の跳躍力を宿らせ、石畳の上をぴょんぴょんと飛び始めた。クーヤは無事に彼女達が地上へ着地できた事を確認すると、振り向いて悪魔を見た。
「逆に逃がしちまったか。まあいい、お前等殺してあいつらも殺せばいい話だ」
加速した悪魔の眼前に稲妻が迸った。危機を感じてか、ブレーキをかけつつ床を蹴って後退する。バルガスの睨みつけた先には杉村が立っていた。
「弱いくせにたてつくなって」
「これ以上は進ません!」
「でしゃばんなっつってんだろうが!」
悪魔の姿がかき消えたかと思うと、杉村は何かが体を突き抜けたのを感じた。クーヤにもそれは一瞬の事で、何が起こったのかを理解するのに時間が少しだけかかった。でもその少しの時間はとてつもなく長くて、クーヤの心の中で何かがはじけとんだ。
杉村の体は浮いていた。血を滴らせながら、胸を悪魔の豪腕が貫いていた。クーヤは目の前の映像を疑った。杉村は口から血を流しながら笑っていた。そして擦れた声で、逃げろ、と言う。
悪魔が杉村を壁に叩きつけ、その胸板を踏みつけた。クーヤは全身の毛が逆立つのを感じた。
「弱いからこうなるんだよ。馬鹿野郎が」
「クー……ヤ、逃げ、ろ……」
「あぁ? まだ息があるのかこいつは」
「やめろ……」
「しぶといねぇ、さっさと死ねよ」
何度も何度も胸を蹴りつけられる杉村。クーヤは震える声で憎悪を絞り出した。
「やめろ……」
「そろそろ死ねよ」
「やめろ……やめろ……」
「あばよ」
「やめろぉぉぉぉぉぉっ!」
止めの一撃とも言わんばかりの踵落としが決まると同時に、ぐしゃりと言う何かが潰れた音を立て、杉村の鼓動は完全に停止していた。絶叫も虚しく、クーヤは拳を握り締めた。悪魔の高笑いだけが聞こえる。こいつだけは、こいつだけは――
――許すものか。
悪魔が吹き飛んだのはクーヤが顔をあげたのと同時であった。先程まで少年が居た場所には既に人の形すらも残っておらず、今しがた自分が殴られた場所に赤髪をなびかせ少年が立っているではないか。空中で態勢を立て直しながら着地し、口を拭う。
「馬鹿な……!」
――この優劣種である俺が人間如きの動きをよめなかっただと……?
「……杉村先生」
既に微塵も動かない杉村を見て、クーヤは涙を流した。バルガスは隙だらけのその少年の姿に、好機と言わんばかりに再び加速する。
――この生意気なガキの首を一思いに……!
バルガスは赤髪の少年の顔を粉砕するのを想像しながら腕を振り上げた。相手は全く防御の態勢もとろうとしていない。これなら気持ちよく潰せる。愉快に唇を歪めながら腕を振り下ろした悪魔――だが、その腕は頭蓋へ到達するよりも早く、少年の右腕が捕らえていた。
「う、受け止めた?」
「何故、人間を殺すの……」
悪魔が驚愕しているのを前に、赤髪の少年の口からでたのは悲しみにくれた質問であった。悪魔はそれに対し分かりきった答えを返す。
「楽しいからさ。弱い者をいたぶるのが俺の趣味でねぇ」
「そっか……」
クーヤはその返答を聞き終えると、落胆したように肩を落とし、悪魔の腕を放した。その瞬間、バルガスが唇を三日月形に裂きながら豪腕で少年の顔面をミンチにかえようと試みる。が、彼は自分の拳が少年の頭蓋へ命中したのを幻視したに止まり、今度は自分の頬に激しい衝撃が走ったのを感じた。大男の体は遥か後方まで吹き飛び、窓ガラスを突き破って教室内へと突っ込んだ。脳を揺さぶられたのが原因か、脳震盪を起こして起き上がる気配はない。
拳をそっと下ろしたクーヤは、既に息のない杉村の体を抱えた。瓦礫は積み重なって、上手い具合に下へと降りられる。悪魔の数は二体。もしもう一体がメグ達を襲っていたら大変だ。瓦礫を飛び降りながら、クーヤは先を急いだ。
「……バルガスが気を失ったか。油断したな」
ジェスが不機嫌そうにどこともつかない空間を見上げた。既に一階の殲滅は完了している。子供は見逃しているが、目に付く魔術師は全て抹殺した。子供を逃がしたのは甘さではない、これが自分なりの戦い方なのだ。
逃げる者は基本的には追わない主義だ。それが女子供であればなおさら。
こんな事を言っているからいつもバルガスに怒られるのだが、この生き方だけは曲げるつもりなど毛頭ない。
突如火炎球が飛来する。尋常ではない反射速度でその火炎球を叩き落すと、襲撃者を切れ長の目で見た。ローブを着込んだ魔術士が三名、性懲りも無くこちらに向けて詠唱を始めている。そのうち一人の掌で閃光が起こった。
――雷術"ライトニング"
襲い来る三本の稲妻を難なく回避すると、他の魔術師が詠唱を終えぬ間に反撃を開始する。床を這うようにして接近。まずは一人目の後頭部を手刀で叩き割る。残りの魔術士達に動揺が広がるが、ジェスは決してその隙を見逃さない。二人して並ぶ魔術師の間に割って入ったかと思うと、閃いた掌がローブごと首元を掻き切っていた。返り血もものともせず、ジェスは両腕を下ろす。
――不毛だな。
その耳が人間の気配を感じ取る。ジェスは感傷を捨て、声のする方へと走り始めた。
悪魔の移動速度ならば、普通に走って移動する人間より八倍は速い。
今すぐにでも外に逃げようとしているのはアカデミーの生徒達と、少数の魔術士である。魔術師達は悪魔に気付いたのか、生徒を守る為に果敢に前に出る。
数は五。これなら瞬殺である。
魔術士の弱点は詠唱の時間である。集中しなければ魔力は身体の一点に集中しない。高度な魔術であればあるほど、その詠唱時間は長く、隙の生じる時間も長くなってくるのだ。
そして悪魔にはその詠唱時間などを物ともしない速さが備わっている。無防備な人間をボロ雑巾のように引きちぎるなど、造作も無いことなのである。
一歩、それだけで魔術師の目の前に立ったジェスは、手始めにその男の顔面を握った。途端、男からの情けない悲鳴が潰れたかと思うと、その潰れた悲鳴ごと横で詠唱している魔術士に投げつける。詠唱に集中して仲間の飛来に気付かなかった魔術師は、哀れにも壁と死体に挟まれて潰れてしまう。三人の魔術師も距離をとろうと後退するが、それを悪魔が見逃すはずがない。一瞬でも背後を向けた瞬間、一瞬にて後頭部をかち割られて三人同時に絶命してしまった。
生徒から悲鳴があがる。早く逃げようと必死になっている中、二人の少女だけが果敢にこちらを睨みつけている。ジェスはその姿を確認しても歩行を止めない。彼女達も邪魔するのであれば排除する。逃げるものは追わないが、向かってくる者は誰であろうと叩き伏せるのだ。
予想通り、彼女等は詠唱を開始した。それを嘆かわしく思い首を振ると、ジェスは一気に加速する。
――苦しまずに逝け。
手刀を振りかざし、その首元へと狙い済ました一撃が振り下ろされる。
「……?」
ジェスが女生徒達の鮮血を見ることは無かった。そのかわりに見たのは、目まぐるしく流れ映る石畳と、鈍い衝撃と共に飛び込んできた天井の映像である。自分の状況を理解するのに気付くのに数秒かかったが、やがて自分は投げ飛ばされたという事実に気付いた。ゆっくりと起き上がると先程の少女達を見上げた。
目に付いたのは赤だ。燃え上がる炎を彷彿させる髪を振り、一人の少年がそこには立っていた。ジェスは理解する。この少年が今しがた自分を投げ飛ばしたのだと。二人の少女はと言うと、少年の後ろで少年の事を驚きに満ちた眼差しで見つめていた。
「大丈夫? メグちゃん、ヒナちゃん」
「クーヤ! 大丈夫だったの!」
「うん、何とか……下がってて。退治する」
「くーやぁ……心配したんだからぁ!」
もう半泣きの状態でクーヤに抱きつくヒナ。クーヤは微笑みながらその髪を撫でてやると、静かに少女を引き剥がした。
「メグちゃん、ヒナちゃんを頼む」
「大丈夫なの?」
微笑みで頷くと、クーヤは悪魔と対峙する。向こうの方もやる気のようだ。
ジェスは腰に提げていた一振りの剣を抜いた。ぎらりと光るその刃は闇を彷彿させる黒を纏っていた。この少年、手を抜いていてはやられるのが
自分だと分かり、ジェスは本気でかかるつもりなのだ。
対するクーヤは冷静に相手の動きを窺っている。詠唱も何もしない。ただジェスの目を見つめているだけである。
ジェスの爪先がぴくりと動いたかと思うと、
「行くぞ」
戦いは唐突に開始された。ほとんど視認できない動きで、左右にフェイントを交えつつ接近。そして最小限の予備動作だけで少年を薙ぎ払おうとする。だが、その時既にクーヤは悪魔の予想外の行動にでていた。全く恐怖を感じさせない前進でジェスの加速を止め、振りかぶろうとしていた剣をその腕ごと握り締め、進撃そのものを止めた。ジェスは第一撃が止められた事を瞬時に理解すると、今度は左腕を閃かせた。とても人間には反応できない速度の拳を少年の頬に叩きつけると、即座に一度距離をとる為後退する。そして、その少年の戦闘力の高さに思わず顔をほころばせる。
「名前を聞いておくのを忘れていた」
「クーヤ。赤城 空也」
「ク・ウ・ヤ、か。いい名だな」
ジェスは剣を鞘に収めると、静かに頷いた。
「丸腰の相手に私も失礼をした。私はジェスだ。いい勝負になりそうだな」
拳を構えると、切れ長の目でクーヤを睨む。クーヤはぽつりと何かを呟くと、唇の前にそっと二本指を立てた。それが詠唱であったと気付いた頃には遅い。既にクーヤの姿は、赤い影だけを残しながらジェスの前から消えている。
――補助魔術"ヘイスト"
使用者に悪魔と対等なくらいの加速力を与える補助魔術の基礎中の基礎である。その分詠唱時間も短く、対悪魔用の戦闘でこの魔術を唱えたのは正解である。
ジェスは消えた少年の姿を探してはいたが、捕らえる事は出来ていなかった。背後に風の動きを感じ、振り向いた時には遅い。足元はものの見事に破砕し、瓦礫がジェスの視界を奪う。第二撃を予測し防御態勢をとっていたが、一切向こうからの攻撃はなかった。煙は薄いもので、すぐに晴れた。だが、クーヤと二人の少女の姿はその場から完全に消えていた。
「……戦わず逃げた、か。頭のいい奴だ」
「赤髪のガキを見なかったかジェス!」
怒りを露に天井を破壊して着地したのはバルガスだ。悪魔の再生能力は人間のそれを超越している。気を失っていた時間も人間より短い。ジェスは相棒の憤怒を見て、尚更あの少年に対し関心を持った。彼はバルガスが目を覚ます時間を考慮し、外に逃げた生徒達の為の時間稼ぎと、二人の姉妹の救出もこなしてみせたのだ。まさかアカデミーの人間にもここまで出来る者がいたとは、ジェスも思っていなかった。
――喰えない奴だ。
嬉しそうに唇を吊り上げると、ジェスは相棒の背中を叩いてやる。
「あはははは! たのしーい!」
物凄いスピードで地面が流れていく。自分を抱えて移動する彼は五十メートルを何秒で走るのだろうか。向こう側の腕で楽しそうにはしゃぐ妹を他所に、メグは見上げても視界に入らないクーヤの顔を見ようとジタバタしていたが、少年に、
「危ないから動いちゃ駄目だよメグちゃん、ヒナちゃん」
と叱られ大人しくなった。
それから何分かすると、前方に先程先に逃げ出した生徒達の姿が見えた。十秒もしない間にその生徒達と合流したかと思うと、クーヤは一気にブレーキをかけた。砂埃を巻き上げながらスピードを失う少年。生徒達の前に立つと、まず双子の姉妹を下ろした。
「ディオン、大丈夫だった?」
「クーヤ!」
先頭に立ち、皆を誘導していた少年にクーヤは声をかけた。親友、ディオンはその声の主に気付くと、すぐさまかけつけてきた。
「街道さえ抜ければ街に出る! そこまで皆先に行くんだ!」
行列に指示を放つと、今度はクーヤの手をとってぶんぶん振った。
「お前、無事だったのか! 姿が見えないからてっきり……」
「僕は悪運強くてね。ちょっとやそっとじゃ死なないよ」
冗談っぽく微笑む赤髪の少年。ディオンは蒼い短髪を掻きながらアカデミーの方へ顔を向けた。
「……悪魔にやられちまったな」
「うん……」
「先生も全滅……生徒は大半が……」
そこまで言ってディオンは膝を折った。力無くうずくまると、小さな嗚咽をあげる。クーヤは親友の気持ちを察し、その背中をなでてやる。その様子を心配そうに双子の姉妹が見つめているが、クーヤは優しい微笑みしか返す事が出来なかった。姉妹もそれ以上、言葉も望まず、ただ二人の姿を見守っていた。
悪魔は全て奪っていく。人間の生活も、仲間も、全て。
クーヤは憎いほど蒼い空を、ただ見上げる事しか出来なかった。
『その少年、凶暴につき』 END